自衛隊歌姫 鶫真衣さんの歌を聴いていると、胸にこみ上げてくるものがあった。羽生選手が舞われた『春よ、来い』と『花は咲く』が甦って来た。YouTubeにアップされている『春よ、来い』動画を(いつまでかわからないけれど)リンクしておく。
羽生結弦 GP Helsinki 2018 グランプリシリーズ フィンランド大会 EX「春よ来い」
『春よ、来い』と『花は咲く』、それぞれの演技についての自分の記事を読み直して、その時の感動を再び味わっている自分がいます。面映いのではあるけれど、リンクしておきます。
『花は咲く』
『春よ、来い』
羽生結弦選手の演技に出逢ったのが2014年12月28日。NHK特番で特集されていたNHK杯Exhibitionでの「花は咲く」の映像だった。気がついたら、おんおん泣いていた。こんなに美しい人がスケーターにいたのだと衝撃を受けた。
YouTube動画になっているものを録画したのだけれど、あのときの感動はその都度甦ってきた。何度見てもそれは変わらなかった。このピュアさ、この美しさ、そして何よりもそれらを演技として描出する精神力の勁さ。単にスポーツとしてしかフィギュアスケートを見ていなかったので、ここまでの芸術度の高い演技をする人がいるなんて、神様の配材間違いかと思ったくらいである。確かに彼以外には美の高みにまで演技を、その身体を持って行けている選手は皆無だった。今もそれは変わらない。男女ともに。
羽生選手が「SEIMEI」を演じるにあたって、狂言師の野村萬斎さんと対談したのも、記憶に深く刻み付けられた。そこで言及された世阿弥が自身の芸論『花鏡』で論じた「離見の見」に刺激を受けて、能を本格的に見始めた。だから羽生選手は私にとっては恩人である。
世阿弥が晩年に到達した「離見の見」、今それをなんとか能楽論の中心に持ってくるよう、呻吟中である。
「春よ、来い」の演技にも「花は咲く」と同質の思想を感じた。それは「慰霊と鎮魂」である。彼が「花は咲く」発表時よりもはるかに意識的にメディアムとして自身を意識しているように感じた。この意識の部分には「離見の見」が彼の身体の中に入ってしっかりと根付いているのが感じられた。技術的にだけではなく芸術的に一つ高いステージに昇られていた。
地上的世界(世俗)の俗っぽい競争を超越してしまったように思うけれど、それでも今回ISU最優秀選手に選ばれたことはうれしい。なぜなら、これを「口実」にして一層(もしあるとすれば)高い目標を、自身に課されるに違いないから。それは一体どういうパフォーマンスになるのだろう。