点数を稼ぐのに集中しなくても良い場で思いっきり舞う。想いの丈を込めて。真っ白にピンクのさし色、かつフリル全開の衣装が美しい。こういうのが似合う男性スケーターは彼以外考えられない。アンドロジナス的な美を、その身体で、その演技で表現できるのは彼をおいてはいない。「官能的」の一歩手前で止まるなんて芸当はかなり上級者ですよ。
羽生結弦選手のことばが紹介された。「エキシビションの『春よ、来い』ではスケートの滑らかさを感じてほしい」というもの。こういう発想をするところがいかにも「羽生結弦」。観客を慮る「離見の見」がくっきりと浮かび上がっている。彼の演技に美しい何かを感じ取り、それに同化してほしいという願い。
フィギュアスケートのグランプリシリーズ。競技である以上、そこには点数をかけた闘いがある。「美しい何か」なんて、考えているヒマはない。選手の側にもその演技を見ている側にも。技術的に最高極地に居る羽生選手といえどもその「しばり」から逃れられないだろう。口惜しい。芸術的な演技を高評価するジャッジばかりではないのが、さらに口惜しい。だからEXは競技から解放された選手の姿を見ることができる。ある意味それぞれの選手の「真の力」を判断することができる場でもある。
そのEXの場で、ダントツに、ぶっちぎりに圧勝だったのは、もちろん羽生結弦。他は比較対象にすらならない。ステージが違いすぎる。その表現力で、その芸術性で、そして何よりもその美しさで。しかも演技から、終わった後の挨拶から滲み出るのは彼の品性の高さ。彼一人が輝いていて、あとはその周りを廻っている(外れている)惑星にしか過ぎない。ここでピリオド。反論はうけつけません。アンチ、くそ喰らえ!より優れた感性を持つには、生まれかわるしかないですね。
羽生結弦というスケーターのもつ他選手にはない気品と格調の高さが、その芸術性の高さが顕れていた。「存在そのものが高貴である」と認識させられるEXだった。フィギュアスケート界は羽生結弦によって、スポーツのくくりから芸術へと昇華する可能性が拓けたのだ。そのことの重大さをフィギュアの重鎮たちは理解しているのだろうか?今までも、これからも出てこない選手なんですよ。それがわかっているのだろうか?はなはだ疑問!
そして演技。「春よ、来い」いつ見ても優雅そのもの。どこまでも優雅。でも可愛いんですよね。この可愛さは10代から変わっていない。普遍的可愛さ「可愛いい」のアイコン・理想形とでも呼びましょうか。解説の本田さん、「柔らかさの中に剛さがある」っておっしゃっていたけれど、まさにそれ。そのアンビバレント要素を一つにしてしまえるのが羽生結弦なんです。
「春よ、来い」、ここはまさに「美」の領域。自然を愛おしむ心が表現されている。女性的な柔らかさ、包み込み抱きとるイメージにあふれている。この舞を舞っているのは妖精=羽生結弦。女性的な滑らかさとしなやかさ。それと優雅さの権化。
対するアンコールでの「オリジン」には「崇高」を感じ取ってしまう。闘いの精神が厳然とある。立ち上がるのは剣士のイメージ。つまり、男性的な剛さを表象しているように感じる。
こういうプログラムを組むというところに、羽生選手のスマートさを感じる。頭脳も感性も他の追随を許さない。
録画した一瞬をスマホで撮影した。あまりにも「羽生結弦」だったから。とにかく可愛い。そして美しい内面が顕れ出ている!ピンボケで申し訳ないのだけれど、備忘としてアップしておく。ご容赦!