表現者としての羽生結弦選手の面目躍如たる「SEIMEI」だった。おそらくフィギュア史上に残るであろう芸術的完成度の高い「SEIMEI」。興奮が醒めやらない。他の演者が(どれほどの演技をしようとも)有無を言わせず君臨する。そんなドラマを見せてくれた。感激!
あの平昌オリンピックとはまったく違った「SEIMEI」。でもこれこそが本来あるべき「SEIMEI」と納得させられる。表現者=羽生結弦がこうあるべきと考える「SEIMEI」。ジャンプの本数と配置に縛られたプログラムから解放されると、どれほど心に応える演技ができるかの見本でもあった。彼が想いのたけをぶつけて、弾けた「SEIMEI」。
大幅に平昌のときと違っていて衝撃だったのが、二つ目のジャンプの代わりにステップが入っていたこと。さらに、ここのシークエンスがまるで違っている。よりアグレッシヴ。より踏み込んだ安倍晴明の本質に迫る演技。演技者=表現者としての羽生結弦選手の本領発揮、解釈全開の演技である。こういう知的な作業が可能なのは、演技者が羽生選手だから。
表現の完成度にとって重しになっているジャンプは2回のみ。そのジャンプを省いたところには華麗なステップ、スケーティングが配されていた。「こんなに自由奔放に舞い倒してもいいの?」って心配(?)になるくらいの過激なステップ、スピンが。しかもそれらは、一つの切れ目のない流れ、ストリームになっている。それがまるで初めからそうなっていたような予定調和感。いささかの齟齬も、中断もない。その流れの美しさには、ことばを失ってしまう。ただ、驚嘆のみ。「ああ、羽生選手はこういう風に晴明を解釈していたんですね」と頷いてしまう。
どのあたりが以前の「SEIMEI」と異なっていたのか、時系列に見てみる(間違っていたらご容赦ください)。The second sequenceでは上体を自在に使っての表現が前とまったく違う。The third sequenceではジャンプの代わりにより激しい、そして華麗なスピンが入る。又いくつものジャンプのための助走を排したので、そこに華麗なステップ、スピンを入れるのが可能になった。
このEXで、羽生選手はよりダイレクトに、大胆に晴明がどんな人物だったのか、彼の解釈を示そうとしていることが印象的だった。そして彼の示した解釈は次のようなものではなかっただろうか。
晴明とは闘う人だった。
晴明とは妥協とは無縁の人だった。
晴明とは大きな力に抵抗しながらも、それすらとりこんで、自らの力に変換してしまう人だった。
晴明とは荒ぶる武士(もののふ)だった。
晴明とは民の癒しのために天が遣わした人だった。
晴明とは聖と俗をつなぐメディアだった。
晴明とはメディアのドラマを生きる人だった。
この晴明ドラマが見ている側にもビンビンと伝わってきた。このような場に立ち会うことは一生のうちそう頻繁にはないだろう。そういう時間を与えてくれたことで羽生結弦さんという人に感謝しても、し足りないほどである。
さらには、スポーツのフィギュアスケートという場でもこういう表現が可能なのだと示してくれた羽生結弦という表現者。フィギュアスケートが芸術にカウントされるきっかけを作ってくれたように思う。それをどう引き継いで行くかは又別の課題。
この稀有な美と技術の合体を、その身体で可能にする凄さ。ことばがない。