見ている間に、三島由紀夫の『近代能楽集』の巻頭を飾る『邯鄲』が浮かんできた。九郎右衛門師が演じられる盧生に三島『邯鄲』の次郎が重なった。以前にみた『邯鄲』ではこういうことは起きなかった。九郎右衛門師の盧生解釈がおそらく他演者と異なっていたからだろう。ずっと若々しかったのもあるけれど、それ以上に「青年期の悩み、葛藤」のようなものが、見ている側に伝わってきたからだと感じた。それが痛切に迫ってくる感があった。
能のシテは普通演じている役柄の苦悩を直截的には表現しない。もちろん「憑依」場面では荒々しい形での感情の吐出があるけれど、その前段階では生の感情表現は極力排される。むしろ、内省的というか身体の中に込められた力として表現される。九郎右衛門師の盧生はどこか無邪気な感じで、それも未来への期待に燃えている様子が可愛い。子方とともに、それと同じ無邪気さで舞を舞うあたり、その高揚感が最高レベルに達する。ここ、見事。
さらに見事と唸ったのが、ドンと大きな音とともに、「引立大宮」なる台の上に横ざまに跳び乗り、横たわる場面。本当、びっくりした。背中と脇に青あざができておられないか、かなり心配した。そのあと、夢から醒めてすっと起き上がる様がまた見事だった。まるでなにごともなかったかのように。さすがです。
盧生は夢が醒めると同時に「現実」を受け入れざるを得なくなる。この道程のために、邯鄲の枕が必要だったわけだけれど、そこには自傷的な、マゾヒスティックな諦観がある。最後の九郎右衛門師の佇まいがその諦観を表していたように感じた。とはいえ、どこか疑念も残っているような。そのさまはやっぱり若い。それが、否応なく三島の次郎と重なってしまう。
三島由紀夫の『邯鄲』。『近代能楽集』中の他作品との違いは主人公がうら若い青年、十八歳の次郎であること。おそらく次郎には青年期に入る前の三島自身の世に対する懐疑の念とそれを懐柔、あるいは征服しようとする念の相克が重ねられているように思う。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』ではないけれど、少年から青年に成長する頃は、些細なことで絶望してしまい、挙げ句の果てにウェルテルのように自殺してしまうこともあるだろう。その時期特有の迷い、危うさが「自らの存在への疑義」として苦しむことになる。「現実」を受け入れられない不安のようなものかもしれない。現実を受け入れることが最終解決になるのだけれど、それでもどこかに「それでいいのか?」と言った想いも残る。それが若いということなのかもしれない。
この日の『邯鄲』の演者一覧、それと銕仙会『能楽事典』よりの曲概要をお借りして、アップしておく。
<演者>
シテ 盧生 片山九郎右衛門
子方 舞童 梅田晃熙
ワキ 勅使 殿田謙吉
ワキツレ 大臣 宝生欣哉
ワキツレ 平木豊男
ワキツレ 宝生尚哉
アイ 宿の女主人 茂山 茂
笛 杉 市和
小鼓 飯田清一
大鼓 谷口正壽
太鼓 前川光長
後見 小林慶三
大江信行
梅田嘉宏
地謡 青木道喜 古橋正邦 河村博重 分林道治
味方 團 宮本茂樹 河村和貴 大江広祐
<概要>
中国 邯鄲の里を訪れた悩める青年・盧生(シテ)は、宿屋の女主人(アイ)から不思議な枕を借りる。それは、わが身の進むべき道を悟ることが出来るという枕。盧生は早速これを使って昼寝をする。暫くして勅使と名乗る男(ワキ)に起こされた盧生は、帝位を譲ると告げられ、そのまま大臣たち(ワキツレ)の居並ぶ王宮へと連れてゆかれる。栄華の日々を過ごし、不老長寿の酒で大宴会を開いて歓楽の限りを尽くした盧生であったが、そうする内に人々の姿は消え、盧生は再び眠りに落ちてゆく。盧生が目を覚ますと、そこはもとの宿屋。今までの出来事が全て夢であったと悟った盧生は、この世の真理を知って満足するのであった。
今日が片山定期能の納会。前売り券は全て完売、当日券はなし。ということで、満員であることを予想していたけれど、実際はそれ以上。2階席覚悟でギリギリに到着したのだけれど、その2階席も空席を見つけるのが困難だった。どうにかこうにか空席を確保。でも視界が芳しくなく、舞台も左脇が完全に隠れてしまう。
それでも地謡、お囃子の音は近くで聴くことができる。臨場感はしっかりとある。それに感謝しながらの『邯鄲』。仕手の九郎右衛門師が文句なしに素晴らしかった。