浅井通昭師がシテを務められるのを見るのは一昨年の『錦木』、『天鼓』に続いて今回が3回目。『錦木』、『天鼓』いずれも素晴らしかった。当ブログの記事にしている。
『錦木』、『天鼓』のシテどちらも亡き者の執着の想いが霊となって現れたものだけれど、『邯鄲』のシテにはそういう強い念はない。ただ夢の中で人の世の盛衰を見届け、達観する過程を描いている。これは私の勝手な想像ではあるけれどシテを演じる場合、前者の様にこの世への執着が霊となる役を演じる方が、自らの想いを重ねて演じやすいのではないだろうか。身体の中へ中へと深く沈潜させるエネルギー。その強度を表現するのに能のあの舞はうってつけである。それは一見動いているようには見えない舞でも、激しく舞台を往来する舞であっても、収斂するエネルギーを発しているのが見る側に瞬時に理解できるから。
しかし、怨霊の登場のない『邯鄲』の盧生を演じるには、現在の身体を「夢」の影響下に置きつつ変化させ、それを見る側に納得させる力配分の計算が要るように感じた。「力配分を身体に課す」というのはそのまま私たちが知っている現代劇のそれでもある。三島由紀夫が『近代能楽集』の最初の曲に『邯鄲』を選んだのがそういう現代劇的なところに惹かれたのかどうかはわからない。でも見る側からすれば、あまり抵抗なく素直に普通の芝居としてみることができるとはいえるだろう。
浅井通昭師は盧生を生き生きと、そして若々しく演じられていた。若さゆえの力強さと同時に、どこか未熟さの残った青年の造型もみごとだった。文学青年っぽい盧生ではなく、どちらかというとスポーツマン的な青年として演じられた。そして身体の隅々にまで行き届いた力、それを制御しつつもどこかに羽目を外す危うさを感じさせる盧生だった。三島の『邯鄲』の主人公、次郎が文学青年的なのとは対照的。あの台の上に跳び乗ったり、降りたりする所作が、いかにもと納得できる。勅使、大臣との対峙もきっぱりとした感じがした。栄華に飲みこまれているようでいて、身体的にはそれを打ち消してしまっている。ひとことでいうと、身体そのものが際立っている。その身体から発するパワーが強烈なのに、爽やかだった。18歳の盧生がそこにいた。
京都観世会のチラシに掲載されていた演者一覧、概要は以下である。
演者一覧
シテ 盧生 浅井通昭
ツレ 舞童 梅田晃熙
ワキ 皇帝勅使 原 大
ツレ 輿舁 橋本 宰
輿舁 岡 充
大臣 原 陸
アイ 宿の女主 山下守之
笛 斎藤 敦
小鼓 林 大輝
大鼓 石井保彦
太鼓 井上敬介
後見 橋本光史
井上裕久
地謡 樹下千慧 大江泰正 深野貴彦 田茂井廣道
浦部幸裕 河村和重 林宗一郎 河村晴道
概要
蜀の国の青年盧生は人生の悩みを解決しようと、楚の国の羊飛山に住む高僧の教えを受けるために旅に出る。途中、邯鄲の里で宿をとった盧生は、宿の女主人から奇特な邯鄲の枕のことを聞き、粟の飯が炊けるまでの間、その枕で一眠りする。
――眠りにつくやいなや勅使がやって来て、盧生に楚の国の王位が譲られたと告げる。思いもよらない知らせに驚く盧生を乗せ、輿は宮殿に着く。雲龍閣や阿房殿のすばらしさ、金銀の砂を敷きつめた壮大な庭の美しさ、出入する人々の装いの見事さ。栄華の日々を送ること五十年。廷臣が盧生に千年の寿命を保つ霊酒を奉げる。童の舞を見つつ自らも喜びの舞を舞う。
――ハッと目覚めるとそこは、もとの宿の部屋、女主人が粟の飯が出来たことを知らせる。茫然と起きあがった盧生は、栄華に満ちた日々も所詮は粟炊く間の一睡の夢と悟り、人生の悩みも消え、晴れやかに故郷へ帰って行く。
公演チラシの表裏をアップしておく。