片山九郎右衛門師の舞台で感動しなかったことは一度もない。常にそのクオリティの高さとそしてそれを可能にする人格・品性の圧倒的高さに感動させられる。これ、決して大仰に言っているのではない。彼の舞台を一度でも見たことのある人なら、必ずや同意してくださるだろう。それぐらい徹頭徹尾完成度の高い舞台である。でもそれが決してとっつきにくいわけでもないのが、すごい!むしろ逆で、ほんわかした温かみを感じるのである。親しみを感じるのである。謙虚で優しい方だというのが滲み出ているから。
これほどの芸術的完成度の高い演者に向かって、こんな妄言をいうのは憚られるのではあるけれど。
関西の人は実に恵まれている。なんとなれば、九郎右衛門師率いる京都観世の舞台が手近にあるから。加えて、京都観世に所属する能楽師のレベルの高さ、層の厚さを思う存分享受できるから。量(人数)では優っている東京は、クオリティではとても敵わないと思う。最近はその事実が浸透してか、観客数がかなり増えてきているのはよろこばしい。でもまだまだという思いもある。千年の歴史の京都を本拠地にする京都観世。にわかの(東京を含む)他地域とは一線を画して当然かもしれない。京都観世の真価が評価され、全国から人が集まってくれたらと、切に願う。
そしてこの日のハイライト、能『安達原』。もちろん、京都観世の総力をあげての企画なので、シテは九郎右衛門師。何年か分の「いい思い」をさせてもらった。すごいとしかいいようのない舞台だった。
当日の演者一覧は以下。
シテ(里女後に鬼女) 片山九郎右衛門
ワキ(祐慶阿闍梨) 小林努
ワキツレ(山伏) 有松遼一
アイ 茂山千三郎
笛 左鴻泰弘
小鼓 曽和鼓堂
後見 梅田壽弘 大江信行
地謡 大江泰正 河村和貴 吉田篤史 橋本光史
浦部幸裕 味方玄 河村晴道 分林道治
能に先立っての林宗一郎師の解説で、この『安達原』が元のものをかなり縮めたものであることが予想できたし、また実際に確認できた。冒頭の僧が里女に宿を所望する場面がカットされていた。それに続くシテの自らの境涯を嘆くところも省かれていたような。でもここは宗一郎師主導の「謡のお稽古」の部分に入っていたかも。「銕仙会能楽事典」からお借りしたこの部分の情景は以下である。
――悲しいかな、人の身と生まれながら、辛いばかりの生活に明け暮れて。それでも、心さえ正しい道を守るなら、救いはきっと訪れるはず。輪廻を引き起こすのも、心の迷い。仏道を願いもせず生きてきた、今までの心が恨めしいけれど、どうしようもないこと…。
「光源氏の日蔭の糸の冠、葵祭の糸毛の車。春の都の糸桜、秋の月夜の糸芒。そんな華やかな糸にひきかえ、こうして糸を繰る私の人生は、何ともつまらなく、長いものでした…」女は自らの人生を悔やみ、泣き崩れてしまうのだった。
そしてクライマックス。貴女のシテは阿闍梨、山伏の強い念力の力で、退散させられる。とはいうものの、かなりシビアな寂寥感が漂っていた。おそらく多くの観客が私と同質の感慨も持ったのでは。
九郎右衛門師の切れ味のよい動き一つ一つに、感激してしまう。まさに至宝」それを意識しないのがすばらしい。持ちこたえて欲しい。