yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

浦田保親師の『恋重荷』in「浦田定期能特別公演」@京都観世会館6月11日

演者一覧と解説の載った公演チラシの裏をアップしておく。

何よりも浦田保親師の抑えた演技が胸を打った。普段は浦田保親師のシテはドラマ性を際立たせたる艶のある演技が頭抜けておられるとずっと感じてきた。だから、この山科荘司の造型は意外だった。声もいつもの華やかさを極力抑えられたものだった。それでいて、静かな舞台と一体化した存在感は重く、見る者に迫ってきた。あまり動作のない動きは、その存在感を発揮するため計算し尽くされていた。

特に強く胸を打ったのが、山科荘司に課せられた「二重苦」がリアルに立ち上がっていたことだった。高貴な女性に恋をするのに身分の賤しさは障害である。遠くから視線を注ぐことすら叶わないほどの身分差であり、埋めようがないギャップがそこにある。しかし私が女御と荘司との落差を感じたのはそれだけではなく、老人であるという「苦」だった。若く美しい女性に恋い焦がれるのに、身分の賤しさだけだったら彼はここまで苦しまなかっただろう。老人であるということがより重く「苦」となって彼を苛んだのではないか。だから、「重荷」は二重になって彼を愚弄したのではないか。若い力がもはや無くなっている老いた身体。若ければいかに重い巌とても、多少は持ち上げ得たかもしれないという含みがあったのかもしれない。

解説をされた山崎氏が例としてあげておられた「恋」の歌(相聞歌)には老人のものは入っていなかった。『恋重荷』が謳いあげているのは、一般的な恋ではない。身分違いの恋であり、老人の恋なのである。叶わない「恋」に苦しむのは若者だけではない。世阿弥はあえて老人の恋という設定をすることで、宗教的な色合いをつけたとのではないか。『花鏡』で論じているところの「冷えたる曲」の趣きを与えたのではないか。演じるのが難しい曲であり、役である。

この記事を書くにあたり、『恋重荷』のテキストとして以下のサイトを参照させていただいた。

muhenko.com

詞部はアリュージョンにつぐアリュージョン。印象に残ったのはワキの「此荷を持ちて御庭を百度千度まはるならば。其間に御姿を拝ませ給ふべきとの御事なり」の台詞。百日通えば思いを遂げさせると言われて、小町に通いつめた深草少将を連想させる。

持てない重荷を嘆くシテは「げに心さへ軽き身の 塵の浮世には柄へて」とその二重に課せられた枷を謡いあげ、後ろ向きで嘆きのポーズ。

しかし地謡はこれで容赦しない。ここからは「持てや持てや下人」と煽り立てる。サディズムのクレッシェンドが続く。それを受けてのシテの嘆き、「この身は軽し徒らに 恋の奴になりはてて 亡き世なりと憂からじ」に静かな怒りと自嘲がのぞいている。なお、地謡のからかいが煽る。

ここで、シテの心が折れる。「よしなき恋」だったと。保親師の抑えた怒りが胸に迫る。少々錯乱しつつ、「哀れてふ 言だになくは何をさて 恋の乱れの束緒も絶え果てぬ」と嘆きつつの中入りとなる。

後場はアイが登場して、「大それた身分違いの恋を諦めさせるために重荷を用意した」とワキの所業の正当化を述べ立てるところから始まる。ワキがいくら「不憫にこそ候へ」と言ったところで、罪悪感はやはりあっただろう。しかしここで、女御が荘司の悲劇を目撃=見物していたのではないことがわかる。とはいえ、やはり女御自身には荘司の悲劇の実感が薄いのが、以下の台詞でわかる。

ツレ(女御)「恋よ恋。我中空に為すな恋。恋には人の死なぬものかは。無慙の者の心やな。」(現代語訳「恋よ恋、軽はずみに恋をしてはなりませぬ。恋で人が死ぬこともあるのですから。あわれな人の心ですね」)

女御は一つの事件として荘司の死を受け止めるのではなく、「恋」に狂った人間の哀れさを一般論として述べる。これまた呑気すぎる反応ではある。

その罪悪感や呑気さを打ち破るのが後シテの登場の激しさである。前場と違い大きな所作に終始する。重々しいが力強い歩みとくっきりとした杖の音。前場の老人の弱々しさとはうってかわって、この老人鬼は「神」に近いほどの格の高さを感じさせる。姿勢もよく、声も太く強い。当然である、もう二重苦からは解放されたのだから。恨みの叫びは激しくも荒々しい。「巖の重荷もたるるものか」に籠められた強い怒り、憤怒。大きくふみならす足にそれが具現化している。その憤怒をなだめるのが地謡である。

地「恋路の闇に迷ふとも。跡弔はゞ其恨みは。霜か雪か霰か。終には跡も消えぬべし」

この「終には跡も消えぬべし」でシテは杖を投げ捨てる。そして「復讐を諦めて守り神になる」と誓うのである。立場の逆転。賤しきものが神になって、女御の守り神になる、つまりかばう側になる決意が表明されている。女御のことを「姫小松」と呼ぶところにそれが表れている。さらに、「千代の影をも守らん」と左袖を翻し足を踏みしめ、まるで想いを吹っ切ったかのごとく去ってゆくのである。彼はもう老人でもなければ、賤しきものでもなく、神になった。保親師のこの退場の場面には図らずも涙が出てしまった。

保親師の荘司造型が立ち上がった瞬間だった。

解説をしてくださった山崎氏。少し残念だったのは、喜多流が演じているこの作品と類似した『綾鼓』への言及がなかったこと。私は三島由紀夫の「近代能楽集」で最も好きな作品である『綾の鼓』。これは元の『綾鼓』をほぼ踏襲したものなので、それとの比較があっても良かったのではと思った次第である。