演者は以下。
太郎冠者 野村萬斎
主人 野村太一郎
次郎冠者 深田博治
後見 飯田豪
あらすじを「能楽の淵」さんのブログからお借りする。
主人は千満という人へ手紙を届けるよう、太郎冠者と次郎冠者へ命じます。二人は連れ立って歩きますが、お互いに相手に持てと押し付けあった結果、二人一緒に持つことにして、竹の棒の中間に結びつけ二人で担いで行きます。途中で、これは恋文だから重いと言い、能『恋重荷』の一節を謡っているうちに、ついに文を下ろして座り込んでしまいます。
太郎冠者の提案で二人は手紙を開いて読んで、主人の文章をあげつらって楽しみます。争って読むうちに手紙が破れてしまい、切れ端を「風の便り」などと謡いながら扇であおいでいると、迎えに来た主人に見つかって追い込まれてしまうのでした。
背景を知らずにこの狂言を見れば、面白さはさほど感じられないかもしれない。実際にはかなり「高度」な諧謔精神に満ちた作品。まず、主人が手紙を届けようとしているのは稚児であること。当時は男色はそう珍しいことではなかった。この主人はいわゆる「両刀使い」。それも恐妻の目を盗んでという。ここでまず、おかしい。
さらなる極め付けは能『恋重荷』をパロディにしているところ。『恋重荷』は喜多流では『綾鼓』。高貴な女御の姿を垣間見て彼女に恋してしまった庭掃きの老人。せめてもう一度女御の姿をみたいと願う老人に、女御の臣下は「庭に置かれた重荷を持って庭を何度も往復するならば女御は姿を見せられる」と身分違いの恋をからかう。老人は何度も重荷を持とうとするが、重くて持ち上がらない。絶望した老人、怨みを抱いたまま亡くなってしまう。この荷の中身は巌であり、老人を諦めさせるための方便だった。その後、女御も臣下も老人の幽霊に苦しめられるという話。
太郎冠者とその連れは主人の文が恋文と分かっているので、「重い」と言い交わし、ふざけ倒すのである。単なる手紙ならこういう「芸当」はしない。それも女へのものなら、ここまでの「侮り」はないだろう。恋文の相手が(女御ほどではないにしても)稚児というイレギュラーな(ギャップのある)相手であるところに含みがあるのだ。
嘲りとまではゆかないまでも太郎冠者と次郎冠者、二人の主人への微妙な侮り感。それが二人の掛け合いの中におのずとにじみでていなくてはならない。このさじ加減が難しい。ちょっと間違えると下品に陥る。さすが江戸前狂言の萬斎さんと深田博治さん。嫌味がまったくなかった。背景を知らない人が見たら、普通の恋文を間にしての駆け引きかと思ったかも。でもね、上方人の私としてはちょっと不満なんですよ。どこかに「えぐさ」を一味加えていて欲しかったと。「アホ、バカ、おたんこなす」なんて感じが出ていて欲しかった。主人をどこまでも虚仮にする感じをもっと前面に出して欲しかった。どこまでも「優等生」なんですよね、萬斎さんは。
主人役の太一郎さん、随分と成長されていた。一時はどうなることかと気を揉んだので。若い人は伸び代があるんだと、改めて感じ入った。もはや伸び代のない自分自身を思ってしまった。