yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

さすがに巧者の舞–−青木道喜師シテの『班女』の舞「京都観世会六月例会」@京都観世会館 6月28日

今回の青木道喜師シテの『班女』はアイ(狂言方)のでる冒頭部がカットされていた。コロナ禍の影響で上演時間の短縮を余儀無くされていたからで、苦肉の策にせよ、狂言方を始め、他の演者の方々も口惜しい思いをされたことだろう。とはいえ、観客のほとんどがこの能の観劇体験がある人だと思えるので、そこは想像力で補いながら観ていたはずである。 

ただ、この野上の宿の長(アイ)の自分勝手さ、花子を追い出す時のサマが滑稽で、これがカットされたのは私としては惜しかったのですけれど。次の機会に青木師シテのフルで見ることができますように。

例によって銕仙会の『能楽事典』から「あらすじ」をお借りする。

美濃国野上の宿の遊女花子は、吉田少将となれそめて以来、互いに取り交わした扇を眺めるばかりなので、宿の長から追放を言い渡されてしまいます。一方、再び宿を訪れた少将は、花子の不在を知ると都へ戻り、加茂社で班女と呼ばれる狂女と出会います。班女は恋慕の舞を舞い、扇を胸に身の上を嘆くのでした。扇を目にした少将は班女を花子と気付き、二人は再会を喜び合います。

この日の演者一覧を以下にあげておく。

シテ 花子(遊女)  青木道喜

ワキ 吉田少将    殿田謙吉

ワキツレ 太刀持   大日向寛

ワキツレ 従者    渡貫多聞

 

大鼓         白坂保行

小鼓         吉阪一郎

笛          杉 市和 

後見         片山九郎右衛門 武田邦弘

  

地謡         浦田親良 河村和晃 大江泰正 河村和貴

           味方 團 河村博重 味方 玄 吉浪壽晃

世阿弥作。世阿弥は「松風村雨ノ後ノ段、班女、(ミソギ川)、是ラハミナ、恋慕ノ専ラナリ」(「五音曲条々」『世阿弥禅竹』日本思想体系、岩波書店、1974、201頁)と、『松風』及びこの作品への自信のほどを述べている。たしかにシテ花子の強い恋慕の情がひたひたと舞姿から、伝わってくる作品である。それも、激しい恋慕というのではなく、懐かしさの強い穏やかな恋慕であるのが逆に想いの深さを表している。どうしても『砧』でのシテの夫への重く激しい恋慕と比較してしまう。

青木師の序ノ舞(中ノ舞)は、この抑えた恋慕を表現したもので、見ほれてしまった。歩幅は狭く、動作は遅い。あくまでも緩やかな動き、進むもののカマエの腕もそのまま止まっているよう。しかし、ものすごいエネルギーがシテ身体を軸として地に向かっている。まるで獲物を狙っているかのような焦点を定めた緩慢である。あの『道成寺』の乱拍子と通じるものを感じた。緩慢だからといって、止まっている訳ではない。身体をほぼ静止状態に保つ、それを長く維持するというのが、どれほどの難しいものか。序の舞は11分ばかり続くのである。ほとんど動きのない状態から感じられる存在感、充実。シテが上手でなければ、これを観る側に感じさせるのは不可能だろう。

四ヶ月ぶりの能公演。京都観世会会長の片山九郎右衛門師が開演前に挨拶をされた。喜びが滲み出ておられた。もちろん演者の方々も。地謡方は特別仕立ての「マスク」をされての公演。苦心の跡が窺えた。声の響はマスクなしのときとほとんど同じで、問題なく聞けた。この日のチラシ裏をアップしておく。

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三年前にこの作品(こちらはフルバージョンだった)を見た折には、序の舞にここまで感動はしなかったような。まだ見る目がなかった?今も怪しいけれど。三島由紀夫の『班女』を思い合せて見ていたこともあるかもしれない。そのときの感想を記事にしている。

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