yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

青木道喜師シテの繊細かつ大胆な舞が光る『山姥 雪月花之舞』in 「京都観世能」(第一部)@京都観世会館 10月25日

今回の「京都観世能」は一部と二部とに分かれていて、それぞれが3時間余りというプログラムになっていた。「コロナ禍を組み伏せる」という強い意思を両方の部の演目構成に感じた。加えて、この疫病にいかに向き合うかというという難問に、演者各自が答えを見出そうとしたことが伝わる舞台になっていた。しかもそれを舞台で表現するという意気込みも感じられた。とても見応えのある舞台だった。第二部を見なかったのは残念。それにしても能楽師のみなさま、一、二部合わせて7時間強の舞台、お身体は大丈夫だったでしょうか。

もっとも感動したのはシテの青木道喜師の大熱演だった。初めは静かに押さえ込まれていたエネルギーがある一点を境に爆発した。もちろん能なので過激な所作はないのだけれど、それでもくるりと回ってどんと床に腰をつけルところや、くるくると高速で回転されるところに、今までに見たことのない強靭を感じた。まさに「満を持して」という感があった。渾身の舞!

それでは気を取り直して、演者一覧と京都観世会サイトからの解説をアップさせていただく。

演者

シテ  女・山姥 青木道喜

ツレ  百万山姥 分林道治

ワキ  従者   小林 努

ツレ  供人   有松遼一

    供人   岡 充

アイ  里人   茂山 茂

 

笛   左鴻 泰弘

小鼓  吉阪一郎

大鼓  石井保彦

太鼓  前川光範

 

後見  小林慶三 大江信行 牧野和夫

 

地謡  樹下千慧 大江泰正 深野貴彦 吉田篤史

    河村晴久 浦田保親 浦田保浩 林宗一郎 

解説

「山姥の曲舞(くせまい)」を謡うことによって、都で名声を得た遊女・百万(ひゃくま)山姥は、信濃の善光寺参りを志し、供の者と北陸道(ほくろくどう)を進む。越後越中の境にある境川に着いた一行は、ここから善光寺への山越の案内を所の人に頼む。もとより修行の旅と覚悟している百万山姥は、阿弥陀仏来迎の直路(ちょくろ)という最も険しい上路越(あげろごえ)を選び足を踏み入れると、突如日が暮れ前後を忘じてしまう。暗闇より女の声がする。今宵のお宿を参らせましょうというのである。一行が女の宿に着くと、女はいきなり百万山姥に「山姥の曲舞」を所望する。曲舞を聞くために日を暮らし、我が家に泊めたのだと言う女は、真の山姥であったのだ。曲舞で名を上げながら、真の山姥には心も懸けぬ恨みを述べに来たのだと言う。百万山姥はあまりの恐ろしさに、曲舞を謡おうとすると山姥はそれを制し、月を待って謡えば真の姿を現そうと言い捨てて消え失せる。                  <中入>
 所の人より山姥の謂れを様々聞いた後、夜更けていよいよ曲舞を謡い始めると、先刻の言葉通り山姥が真の姿を現し、曲舞に合わせて山姥の何者なるかを移り舞に舞い示す。そして輪廻を離れぬ山姥の、山廻りの苦しみを表して消えてゆくのである。

 山姥とは何者であるかを問い続けるのが、この曲の一つの魅力であろう。山に棲む鬼女か、人間に執着する人か、聖俗を超えた山か、あるいは宇宙の摂理か。人に迷い、輪廻の妄執に苦しみ続けながら、「柳は緑、花は紅」(あるがままがすべて真実)と言い放つあたりに、そのヒントがあるかもしれない。
「雪月花之舞」の小書では、曲舞の前に舞が入り、段毎に雪月花の心を舞い継ぐ。具象に徹する様式で構成される曲中に、舞という象徴性を組み入れるところに、自然と一体化するスケールの大きさが生まれるようにも思われる。

こちらも1本目の能、『猩々』についた解説と同じく秀逸である。とくに、「『雪月花之舞』の小書では、曲舞の前に舞が入り、段毎に雪月花の心を舞い継ぐ。具象に徹する様式で構成される曲中に、舞という象徴性を組み入れるところに、自然と一体化するスケールの大きさが生まれる」という解読はまさにその通りだと納得させられる。

檜書店サイトについた解説も奥が深い。

本曲は山奥に棲む山姥が、都から来た女芸能者「百万山姥」の前に現れ、仏教の摂理を説いて舞を舞うというものです。哲学的要素と芸能的要素が絡み合った、世阿弥の作品です。

百万山姥は「曲舞」という芸能を専門にしています。曲舞とは中世に流行した歌謡で、能のクライマックス部分である「クセ」というパートの原形になったものです。曲舞はリズミカルな節が特徴で、この節を世阿弥の父である観阿弥が能に取り入れたことで、能の大きな改革をもたらしました。

本曲は山奥に棲む山姥が、都から来た女芸能者「百万山姥」の前に現れ、仏教の摂理を説いて舞を舞うというものです。哲学的要素と芸能的要素が絡み合った、世阿弥の作品です。

百万山姥は「曲舞」という芸能を専門にしています。曲舞とは中世に流行した歌謡で、能のクライマックス部分である「クセ」というパートの原形になったものです。曲舞はリズミカルな節が特徴で、この節を世阿弥の父である観阿弥が能に取り入れたことで、能の大きな改革をもたらしました。

続けて、「山姥が『邪正一如』という仏教の理を語る」とくだりがあるのだけれど、そこに世阿弥が到達した禅的悟りが窺えるように思う。

曲舞は元々大和猿楽にはなかったのを、観阿弥が採り入れたもので、男装して舞う白拍子の舞もそれに当たる。トランスヴェスタイト的要素が入っているところに境界侵犯のエロティシズムが醸し出されるわけで、観阿弥もそこに注目したのだろう。これは田楽を発祥とする大和猿楽物の真似芸とは異質な芸で、これを採り入れたことは確かに「改革」と呼べるだろう。

シテの青木師はこういう「哲学的要素と芸能的要素」の絡みに自身を重ね、演じられたのだと思う。見応えたっぷりだった。

最後にチラシの表裏をアップしておく。

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