yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

片山九郎右衛門師・味方玄師二人シテの『猩々乱 双之舞』in「京都観世能」@京都観世会館10月25日

このリハーサルを先月の「「京都能楽養成会 第三回研究発表会」(@金剛能楽堂)で見ている。その折にアップした記事が以下である。

www.yoshiepen.net

やはり衣装を、それもとびきり豪華な衣装をつけての本舞台は圧倒的な魅力と迫力があった。

演者一覧と京都観世会サイトの「演目解説」を以下にアップする。

シテ 猩々 片山九郎右衛門

   猩々 味方 玄

ワキ 高風 原 大

 

笛     森田保美

小鼓    成田達志

大鼓    河村凛太郎

太鼓    前川光長

 

後見    味方 團  武田邦弘

地謡    宮本茂樹 河村和貴 浦田親良 寺澤拓海 

      河村晴道 大江又三郎 越賀隆之 浅井通昭  

『猩々乱 置壺双之舞』解説

 昔の中国のお話。潯陽江の畔の揚子(ようず)という里に、高風(こうふう)という親孝行の男がいた。彼はある夜、不思議な夢を見る。揚子の市で酒を売れば富を得られるというのである。彼が夢の告の通りにすると、次第に富貴の身となった。
 ここにまた不思議なことが起こる。市毎に来ては酒を飲む者があり、どれだけ飲んでも顔色一つ変わらない。高風は不審に思い名を尋ねると、「海中に住む猩々」と名宣って帰って行った。秋の月の美しい今宵、高風は酒壺に酒を湛えて猩々を待ち受ける。果して猩々は潯陽江より浮かび上り、高風の酒を飲む。秋風を寒くも思わず、月や星の美しさを愛で、芦の葉の笛を吹き、波の鼓の音楽に合わせて舞を舞う。そして高風の孝の心を賛え、汲めども尽きせぬ泉の酒壺を彼に与えて帰ってゆく。秋・月・風・酒・友と揃えば、詩的世界が展開するのは必然である。この曲でも、白楽天の詩にこと寄せて、見事に酒友の友愛の深さと楽しさを生み出している。『松虫』の前場の手法に同じである。ただ『猩々』においては、祝言性が満ち溢れているのが大きな特徴であろう。
「乱」と小書(特殊演出)の「置壷」は、常は出されない酒壺の作り物が正先に据えられ、酒友の心を具象化する。そして常は「中之舞」を舞うところを、「乱」と称する特殊な舞を舞う。囃子は緩急自在に秘術を尽し、シテは摺り足を用いず、水を蹴り、波間を流れ、浮きつ沈みつ舞い戯れる。今回は「双之舞」によって二人の猩々が現れ、楽しさも倍増する。能にこれ程の舞踏的要素と器楽的要素を取り込んだ演出は珍しい。
 祝言と音楽と舞を以って、万民の安寧を願う祈りの曲である。

 「万民の安寧を願う祈りの曲」というところは、今のコロナ禍ではまさに時宜を得ている。

二人シテの『猩々乱』を見るのは(先日のリハーサルを除いて)初めてだった。「『双之舞』によって二人の猩々が現れ、楽しさも倍増する」とあるように、二人で舞うことで祝祭性が倍増され、ウキウキ・晴れやか感が限界にまで広がる。さらに、「滑稽」がキメ場に挿入されていて、晴れやかさに襞を付ける。晴れやかさの金粉が、これでもか、これでもかと撒き散らされる。舞台にだけではなく、客席にも。金粉が舞い散る中で酔いしれる至福のとき。贅沢の極みのような時間に身を浸して、あっという間に曲は終わってしまう。 

解説が秀逸である。「秋・月・風・酒・友と揃えば、詩的世界が展開するのは必然である。この曲でも、白楽天の詩にこと寄せて、見事に酒友の友愛の深さと楽しさを生み出している」という箇所、それと「祝言性が満ち溢れている」というところに、この解説を執筆された方の想いが伝わってくる。造詣の深さが窺える解説と解釈。そうなんですよね、白楽天とくれば酒と友ですから、見ている側も美酒に寄った気持ちなって、舞台時間を共有するということなんでしょうね。

その中でも一番魅力的なのは、なんといっても小書にある「乱(みだれ)」。祝祭性をもっとも華やかに打ち出している。確信犯です。「テケテケテケ」という感じでの爪先立ちの所作は、最初見た折には驚嘆した。とても能のものとは思えなかったから。「なんだ、コレ!?」と、えもいわれない興奮を感じた。

それと、あの衣装!ウルトラ豪華!コミカルな場面が多いので、豪華さがキッチュにすら見えてしまう。とにかく絢爛な衣装だった。 

もう一つ「なんだ、コレ!?」と思ったのが、猩々二人が壺のまで肩組みをするところ。こんな、体育会系男子のような所作は他演目にはないでしょう。しかし、魅力的なんですよね。笑いつつ感動していました。

ということで、隅々まできちんと折り目正しく、それなのにオカシク、これ以上ないほど見る側を楽しませてくれた『猩々』だった。