作者は世阿弥の子、元雅。後場の「天女の舞は近江犬王の曲舞を大和に導入したもの」だという。曲舞は元々は大和猿楽にはなかったのを、その優雅さと面白さに感銘を受けた観阿弥、世阿弥が導入したものである。白拍子の系譜を引くもので、女性が男装で舞うところにアンドロジナス的な魅力を売り物にしたのだろう。
この日の演者一覧は以下。記事末にチラシの表裏をアップしておく。
前シテ 里女 浦田保親
後シテ 天女 浦田保親
ツレ 里女 田茂井廣道
ワキ 紀貫之 有松遼一
アイ 里人 茂山千三郎
笛 杉 市和
小鼓 吉阪一郎
大鼓 谷口正壽
太鼓 前川光範
後見 青木道喜
大江信行
地謡 河村和貴 橋本忠樹 深野貴彦 味方團
分林道治 味方 玄 片山九郎右衛門 吉浪壽晃
曲解説を京都観世会のサイトからお借りする。
概要
紀貫之は吉野山の花が盛りのよしを聞いて、一行とともに大和路にかかる。雲も霞も春一色に染まる中、一行が爛漫の名花に心奪われている。
すると、どこからともなく供の女性に玉琴を抱かせた典雅な女性が現れる。ここは昔、道に踏み迷った浄見原天皇(天武)が、しばし身を休め、気色に愛でて月の夜琴を奏でたところで、その音色が天にとどき、天地の音感あい通じ、天女が天降って、左右颯々と袖を五度ひるがえして舞った青垣山であることを語り、御身は内裏の琴の役者ゆえ、この好季、この佳景に、この唐玉琴を弾きたまえば、かならず天女が影向するであろうと、その琴を貫之に与え、天に昇っていった。〈中入〉
来あわせた所の者にこの山の来歴を聞いた貫之が、くだんの琴を弾じる折から、いにしえの天女が天降り、禁中の五節の舞の祖曲を奏で、花の遊楽は夜もすがら続き、白む月の名残りとともに天女は昇天するのだった。
天女が舞い奏でる天上の楽舞と、貫之が弾じる地上の琴の奏楽とが相い応じる、天地相応・饗応の姿を優雅に描く。
近江猿楽の名手・犬王の天女の舞の妙技に魅せられた世阿弥は、自らの大和猿楽にもとりいれた。三十代半ばで早世した嫡子・元雅もその意識を継承し、天女の舞を観世の座で演じた証となる曲目。やがて元雅は天河大弁財天社に奉納、面を納め、程なくこの世を去る。
平成二十六年、京都観世会「第三回復曲試演の会(シテ・片山九郎右衛門)」にて復曲初演。
この曲の復曲公演について調べてみると、2015年3月、豊田市能楽堂で九郎右衛門師のシテでの公演がおそらく初回、次が2019年12月の国立能楽堂での公演で、こちらも九郎右衛門師がシテだった。復曲能のシテを演じるのはさぞ責任が重いだろう。
優雅ですっきりとした姿の浦田師、その楚々とした佇まいや舞姿の中に、120パーセントの緊張感を持っておられるのが、ビンビンと伝わってきた。楚々としておられるのに、存在感は半端ない。謡も美しい。「五節の舞」は激しい動きが抑えられていて、優雅そのもの。僧正遍照のかの有名な歌、「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」の句が随所に採り入れられた詞章は、のどかでいて、開放的な感じもある。
ところが「天女の舞」になると一転、舞のテンポが上がる。「花の梢に天降るよそほい。げに目前の妙境を現す姿も妙なるや」という詞章の美しさ。それに違わない妙なる舞姿を残して、天女は舞去ってゆく。心残りの余韻を残して。観客はしばし呆然としていた。
お囃子もその調和ぶりがすばらしかった。復曲能は演じる機会が極めて限定的だろうから、合わせるのが至難だと推察される。そんなことを微塵も感じさせない完璧ぶり。前川光範師の太鼓が冴え冴えと響き渡っていて、ワクワクした。
この曲はただただ美しさの余韻に浸ることが許される曲なんですね。元雅といえば親子の死の別れを描いた『隅田川』のような作品が多いと思っていたけれど、この曲のような「ただただ美しさを愛でる」タイプの曲も書いていたのですね。彼の悲劇を思うとき、少し救われたように感じた。