片山九郎右衛門師がシテの天津神、味方玄師がツレの天女での連れ舞いがよかった。本年7月にお二人のシテ・ツレでの能『大典』の奉納があった。横浜能楽堂に請われての公演だったという。「令和」という希望に満ちた新しい御代を寿ぐのに、技量最高を誇るこのお二人はぴったりだろう。まさに正統の舞台。横浜まで遠出してでも、みるべきだった。今回の舞囃子だけでも、その片鱗は伝わってはきたのだけれど。
そもそも能『大典』は大正4年に片山能楽堂で初演されたという(産経新聞4月23日付記事)。つまり、片山家、京都観世会に所縁ある演目ということになる。以下を同記事から引用させていただく。長いけれど、その由来と、今回上演に至る経緯がよくわかるので。
能「大典」は大正4年、京都・片山能楽堂で初演。内容は、天皇の即位式大典の奉告祭が行われたところ、天津神(あまつかみ)(九郎右衛門)が天女(味方玄)を引き連れ天下り、新たな御代(みよ)を祝福して舞う-という奉祝能で、御代替わりを祝う曲のため過去数回しか上演されなかった。最近では平成2年、熱田神宮(名古屋市)での即位の礼祝賀行事で披露されたのが最後となる。
作者は旧京都帝大の独文学者、藤代禎輔(1868~1927年)。夏目漱石の友人で、万葉集の独語訳に取り組むなど、和歌にも通じていた。「令和も万葉集から取られた元号なので、不思議なご縁を感じます。『大典』も言葉が美しい」と九郎右衛門。
元の詞章には現代に合わない部分もあるため、法政大の西野春雄名誉教授(能楽)の監修を受けて現代に合った内容にする。原文では京都・平安神宮が舞台だが、今回は一般的な三重・伊勢神宮に変更。西野名誉教授は「万葉集の引用などいい部分を残し、改元を祝福する内容に」と話す。
九郎右衛門は昨年、横浜能楽堂(横浜市)から「大典」上演依頼を受けた。「僕も見たことない曲ですから手探りでした」。自宅蔵などで資料を集めたところ、作品ゆかりの菊の作り物が“発見”された。
天津神と天女が美しい。二人の身体が琴瑟相和し、美しいハーモニーが聞こえてくるようだった。動きに一部の隙もない完璧な調和である。翻す白銀と赤銀模様の二枚の扇はみごとにうち揃い、神(男性)と天女(女性)の睦まじさがまばゆいほどである。徳仁天皇陛下と雅子皇后の仲睦まじさが思い合わされた。ゆかしく、しみじみと嬉しい。心から嬉しい。新天皇・皇后の門出を祝うのに片山九郎右衛門師以上の演者はいないだろう。最高格の演者であり、最高峰の舞だから。
ただ、お二人の舞台を見ている間は、あまり余計なことは考えていなかった。考える余裕はなかった。それほど圧巻の舞囃子だった。以下に演者の方一覧をアップしておく。
シテ 片山九郎右衛門
ツレ 味方 玄
大鼓 河村 大
小鼓 成田達志
太鼓 前川光範
笛 澤木政輝
地謡 分林道治 古橋正邦 河村晴道
この素晴らしい「大典」を杉市和・信太朗両師の社中の方の笛で舞われた九郎右衛門・玄師。お囃子も地謡もすごい面々!なんという贅沢!ただ、感動。
それと、『大典』の詞章をアマゾンで入手できたので、連れ舞いのあたりから最後までを引用させていただく。
――ツレの天女の舞。
地玉もゆららに乙女子が、玉もゆららに乙女子が、羅綾の袂をひるがへし、五節の舞の手、とりどりに、天津風さへここしばし、雲の通ひ路吹きとぢて、乙女の姿、とどむらん。神神もこれを愛でけるにや、御殿俄かに震動して、玉の階踏みとどろかし、神体出現、ましませり。
シテ「あら有りがたの神国やな。天地開けし初めより、八百万の神たち守護し給へば、戎狄蛮夷の恐れなく、万民その堵に安んぜり。
ツレ「わきて明治聖帝の御代に至り、開国進取の国是を定め、治に居て乱を忘れ給はず。シテ「忠実勇武の民を養ひ、知能徳器の成就をすすめ、
ツレ「天壌無窮の皇運を、扶翼せよとの御志。
シテ「されば今上皇帝も
ツレ「父帝の遺詔を紹がせ給ひて、
シテ「允文允武八紘に、
ツレ「国威を発揚し給ふこと、
シテ「鏡にかけて、見る如し。地この聖徳をたたへんと、天が下なる蒼生も、思ひ思ひに心をつくし、君が千歳をことほげば、天つ御神も万歳楽に、雲の端袖をひるがへし、舞ひ給ふ。
――シテの神舞。
シテ「(ワカ)君が代は、千代に八千代に、さざれ石の、地巌となりて
苔のむす、巌となりて苔のむす、幾久しとも尽きせじ。右近の橘
左近の桜も、いやましに栄え、恵の露に。潤ふ菊も、今を盛りと咲き匂ひ、鳳凰も御園の桐竹に下り、丹頂の鶴は、汀に遊べば、図負へる亀も、川を出でて、庭上に参向しつつ、迦陵頻伽も御空に翔け
理、霓裳羽衣の曲をなせば、山河草木、国土ゆたかに四海の波も、四方の国々も、靡く御代こそ、めでたけれ。(留拍子)