yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「夕顔」を超える味方玄師の存在感 ——— 能『半蔀 立花供養』in「第39回テアトル・ノウ京都公演@京都観世会館 10月6日

美しいチラシをアップさせていただく。

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まず華道遠州宗家、芦田一寿氏による立花があった。舞台全面中央に設置された生け花に、芦田一寿氏が最後の仕上げを施された。「立花」が武道に通じることが伝わってきた瞬間だった。当日の演者は以下。

シテ [里の女・夕顔の女]  味方 玄

ワキ [雲林院の僧]     江崎欽次朗

アイ [所の者]       小笠原 匡

 

大鼓      白坂信行

小鼓      吉阪一郎

笛       竹市 学

 

後見      青木道喜  田茂井廣道  味方 團

地謡      梅田嘉宏  橋本忠樹  大江信行  分林道治

        片山伸吾  武田邦弘  片山九郎右衛門 古橋正邦

チラシに掲載された味方玄師の言葉によると、「『半蔀』は、都北山の雲林院の僧が、夏安吾(ひと夏九十日かけて行う修行)を終える頃に、日々供えた花を集めて供養をするところから始まる」とのこと。以下、概要を銕仙会能楽事典からお借りする。

概要

夏果てる頃。雲林院の僧(ワキ)がひと夏のあいだ仏に供えていた花々を供養していると、夕顔の花の陰に一人の女(前シテ)が現れる。彼女は自らを“五条辺り”の者の霊だと名乗ると、姿を消してしまうのだった。

京の男(アイ)に女のことを語る僧。それは『源氏物語』に登場する夕顔上の霊であろうと教えられ、五条辺りに赴いた僧が見たものは、蔓草に覆われた一軒の茅屋であった。僧が彼女の亡き跡を弔っていると、固く閉ざされていた蔀がはじめて開き、内から夕顔上の幽霊(後シテ)が姿をあらわす。僧の回向の声に、光源氏とはじめて契りを交わした日のことを思い出した彼女は、その馴れ初めの記憶を語り、源氏と誓った永遠の愛に思いをはせつつ舞を舞う。やがて朝になり、彼女は更なる回向を願いつつ、再び茅屋の内へと姿を消すのであった。

まず、橋掛りへと登場された玄師の姿に圧倒される。儚げというより、勁い。身体全体に籠めた力を感じさせられる。一瞬で、舞い手の並外れた力量がダイレクトに見る側に伝わってくる。身体全体に充実の気がみなぎっている。「すごい!すごい!」とつぶやきながら魅入っていた。 

しずしずと舞台中央に登場してのちも、この勁さが余韻となって残っていた。ここからは優雅そのものを表象する女になって行くのだけれど、やはり、玄師の身体から立ちのぼる「確かさ」、存在感が、舞台全体に及んでいた。

後場からは一転して、光源氏に想われた儚げな女に変じていく。衣装も夕顔の花に合わせて白いものに代わる。僧が哀れな彼女の生涯を思い、亡き跡を弔おうと誓い、その住居のあったという五条辺りを訪ねると、「今まで固く閉ざされていた草の半蔀が、はじめて開く音がした。中から現れたのは、夕顔上の幽霊(後シテ)。光源氏との儚い恋に生き、露と消えていった彼女の姿に、僧は涙するのであった」(『銕仙会能楽事典』)。

後シテは光源氏との馴れ初めを語り、舞い始める。『源氏物語』の「夕顔」の段にあるように、源氏がその宿を目に留めたのは夕顔の花が咲いていたからという。夕顔の花を折って、扇に乗せて差し出す夕顔の霊。

源氏この宿を 見初め給ひし夕つ方

惟光を招きよせ あの花折れと宣へば

白き扇のつまいたうこがしたりしに此花を折りて参らする

扇を差し出すのが唯一目につく所作というほど、舞も動きも穏やか。激しさとは無縁の世界。それがこの女の受け身で、儚い存在を表しているのだろう。どこまでも静か。自己主張がない。でも玄師は、その静かな動きの中にも、存在感をしっかりと籠められる。夕顔という女と演じる自身との間に、ある種の距離を感じつつ、舞っておられるように感じた。主体である玄師の演技の勁さと、演じる客体との間にギャップがあり、それが非常に興味深かった。どこまで自身の存在を「賭けて」、客体をパーフェクトに演じるか。そういう挑戦のような気がした。舞台に泰然と置かれた「花」との対決でもあるような気がした。ここにも「武道」を感じたのは、読み込み過ぎだろうか?

 

先日にも感じたことだけれど竹市学師の笛はますます師匠の六郎兵衛師に似て来られたように思う。こちらも勁さの中に美しさが立ち上る。それでいて繊細。感動しつつ聞き惚れた。