この日の能は三本。(それぞれシテが)梅若実師の『玄象』、林宗一郎師の『半蔀』、そして橋本忠樹師の『雷電』だった。どれも非常に見応えがあり、堪能した。
明日からは、東京に歌舞伎を見に行く。とういうことで、詳しい感想は明後日以降になるけれど、感興の冷めないうちに感動した点をざっと記しておく。また、チラシの表裏を以下にお借りさせていただく。
まず、『玄象』。前場での弱々しい老人のさまが非常にリアルだった。実師の脚腰がかなり大変な状態だろうと推察していたので、その所為でもあったのかも。しかし、後場の村上天皇に「変身」したシテはうって変わって軽やか。それにさすが天皇と思わせる品格と美しさ。私は実師お父上の梅若六郎師の(DVDで聴いただけではあるけれど)謡に恋をしてしまっているので、彼の謡を聞くと自然と六郎師の謡の節を探している。よく似ておられるんですよね。今回もその「期待」に応えてくださった。ただ、やはりずっと立った姿勢はきついと見えて、九郎右衛門師が後見をされていたのが、残念だった。九郎右衛門師もお気の毒だった。
林宗一郎師の『半蔀』は若々しく、爽やか。でも軽いというのとは違い、光源氏の思いびとでありながら、あえなく亡くなってしまった夕顔の源氏に対する想いは十全に表現されていた。そこには胸に響く重みがあり、源氏を恋い焦がれる気持ちが、そのゆったりとした舞いに凝縮されていた。ただ、どこかに諦観が感じられるは、夕顔の優しくもはかない人となりを表しているようだった。想いは深いのに、深追いしない。あの悠々とした舞には、想いの深さと相反する諦めの情が、余すことなく示されていたように思う。それが夕顔という人。それは衣装にも示されていた。抑えた山吹色の袴、上衣は萌黄色の紗で、美しい模様が刺繍されていた。この取り合わせが彼女の美しさと同時に儚さを象徴しているようだった。衣装は新調だったのでは。舞い手の若さを際立たせていた。
橋本忠樹師シテの『雷電』は、彼ならではのもの。何度か「同種の」演目を忠樹師シテで見ている。(歌舞伎的にいうなら)こういう役はまさに彼の「ニン」!勢いがある舞いなのに、端正。決めどころがきちんと計算されているからだと思う。「京都観世」をひとことでいうなら「品格が高い」ということになるのではと、密かに思っている。それはこういうちょっと荒々しさのある舞台でも、というかだからこそ、自ずと滲み出る。品位の高さは。加えて橋本忠樹師の雷神はどこかユーモラス。一生懸命、大胆に、荒々しく舞うほど、上品さにノイズが生じ、ユーモラスになる。このギャップが面白い。素敵。