この作品のシネマ版、公開時にロンドンにいたので、残念ながら見ること能わず。箕面の映画館での再映があるということで、一昨日に行ったのだけれど、それでも何か「見落とし感」があり、結局上映最終日の今日も行ってしまった。
前の記事で見落としていたのが、冒頭部のラップ。弥次喜多の二人が(前作の続きの趣で)宙乗りから舞台に降りて行く際に、なんとラップを歌っていた。この作詞は、クレジットで確認するとどうも猿之助らしい。
その他にも、一昨日見た折に見落としていた演出、演者の「工夫」が多々あった。ということで、それらを思いつくままにランダムに列挙してみる。
まず、この「四ノ切」でハイライト部になっている源九郎狐の早替りシーンを殺しの場に設定しているところに、大きな工夫があった。源九郎狐の飛び込み、再登場の場を復元するのに、黒衣の猿之助が采配を振るう。それが演じた役者当人にしかわからない、微に入り細に入ったもの。「後ろからグッと押し出されたとき、足を立てて踏ん張る」なんてのは、まさにそれ。で、「あんた、よく知っているね」と言われ、「そりゃ、何百回となく演っているから」と返すのが、おかしい。
そして、あの劇中劇のヤグラ!伊之助、為三郎の死の真相を解明すべくヤグラを組んで現場検証をするというのは、まるでイギリスの推理ドラマのよう。非常にモダン。こういうの、素敵です。
源九郎狐の早替り登場シーンはいくつかあるけれど、それらを「再現」するというのがいい。劇中劇の形で舞台裏を客に見せるというのは、舞台の表も裏も知り尽くした猿之助の思いつきだろうし、観客サービスでもある。とくに、欄間の舞台裏、そしてその裏に組んだヤグラを見せたのも、大サービス。政之助ならぬ團子(次期猿之助?)が、「いずれ私もあそこ(欄間)から」というのを聞き、猿之助、すかさず、「あなたはまだ早い」と受けたのもいい。こういうところに、澤瀉屋の家の芸である源九郎狐の早替りが、確実に次の世代に受け継がれるであろうことが、見ている側に伝わる。歌舞伎の伝統、そしてそれに浸れる醍醐味を感じる瞬間でもある。
「保名、連獅子、手習子」が小歌の遺したダイイング・メッセージ。この三作品に共通したものは?ここで梵太郎と政之助の二人が、「それは『蝶』!」と「推理」してみせる。お二人さんに華をもたせているんですよね。
趣向にもさまざまな工夫が。まず、ストーリーの核に「犯人捜し」を挿れる工夫。絞り込んだ関係者二人——お蝶と小歌——に話を聞きに行くのに、二人のうちどちらにするのかを客に選ばせるというのもおもしろい。
事件が解決?して、舞台が開くと、そこには、弥次喜多にもらった南蛮渡来の薬によって眩暈が治癒した忠信ならぬ綾人の姿が。この薬は梵太郎、政之助から横取りした薬だった。怒った梵太郎と政之助、弥次喜多への復讐を誓う。どこまでものんきでいい加減な弥次喜多の二人。忠信と立廻りを演じる軍平二人が熱中症になってしまったので、その二人の代役を押し付けられ、軍平の衣装を着せられる。「裏方がなんで役者をやるの?」と言いつつ、あのおかしな軍平たちの「ひょこひょこ踊り」を踊る二人。所作は横の人を見ていれはいいと言われ、たまたま横にきた忠信を真似る喜多八。ここ、最高にケッサクでした。
「四ノ切」では狐忠信が鼓を鳴らしつつ、宙乗りで退場することになっているのに、なんと宙づりになっているのは綾人の忠信ではなく、あの二人。これがこどもたち二人の「復讐」。しかも鼓を持っているのは弥次郎兵衛、つまり染五郎。なんとか鼓を奪い返そうとする猿之助。ここで宙づりになったままの争奪戦。お腹の皮がよじれました。それにしてもさすが猿之助、いったん(客席近くに)下降したもののあの源九郎狐の手足を巧妙に使った演技を決めつつ、上昇する。あれこそ、当日見たかった。
演者の設定にも、パロディ精神が満ち満ちている。まず、七之助演じる女医の羽笠はひょっとして『男の花道』に登場する土生玄碩のもじり?博多座(2017年2月)では、猿之助=歌右衛門、平岳大=土生玄碩の配役、その前の明治座(2015年5月)では猿之助=歌右衛門、中車=土生玄碩だった。今までの歌舞伎の舞台、登場人物、そして演出に似ているようでいて、さりげなく外している、このバランスにとびきりの洒落っ気を感じる。
そういえば、中村屋の弟子の鶴松(亀松)が伊之助の「部屋子」という「外し」もいい。女医、七之助が鶴松の体を「使って」毒の回り方を講釈するのも、二人の息の合い方に感心させられる。
また中車演じる釜桐座衛門の登場シーンに既視感が。『赤い陣羽織』のあのド派手なお代官じゃありませんか!
もどき、もじり、うがちに満ちた舞台だった。実際の舞台を見なかったのが、残念至極。