yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

染五郎の知盛がすごい「碇知盛」『義経千本桜』@歌舞伎座 6月4日 第一部

まずは今回公演のチラシを。

この通しの全体像とその狙いを「歌舞伎美人」にアップされた「みどころ」から。

流転する義経に翻弄された三人の男たち―長編歴史ロマンを三部制で初上演―
 『義経千本桜』は、『菅原伝授手習鑑』、『仮名手本忠臣蔵』と並ぶ歌舞伎三大義太夫狂言の一つとして知られており、現在でも上演を重ねる人気作品です。
 源平争乱の後、源義経がたどる数奇な運命を軸に、平知盛、いがみの権太、狐忠信の三人の物語が描かれています。
 当月は、三人の男に焦点を当て、三部制でご覧いただくことにより、それぞれの人物を取り巻く物語を一層わかりやすく描き出します。源平争乱後の時代を舞台に繰り広げられる三者三様の人間ドラマをご覧いただきます。

構成は「渡海屋」、「大物浦」、「所作事 時鳥花有里」の三部構成。「渡海屋」と「大物浦」の配役は以下。

渡海屋銀平
[実は新中納言知盛]  染五郎
源義経        松也
入江丹蔵       亀鶴
亀井六郎       歌昇
片岡八郎       巳之助
伊勢三郎       種之助
駿河次郎       宗之助
銀平娘お安実は安徳帝 武田タケル(右近長男)初お目見得
武蔵坊弁慶      猿弥
相模五郎       市川右近
女房お柳実は典侍の局 猿之助

「歌舞伎美人」からの「みどころ」が以下。

義経への復讐を図る知盛の壮絶な最期
 兄頼朝に都を追われた義経一行は、大物浦の船問屋の渡海屋で出船を待っています。実は渡海屋の主人銀平は、壇ノ浦の合戦で死んだはずの平知盛で、典侍の局や安徳帝と共に素性を偽り、平家の恨みを晴らす機会をうかがっていたのでした。知盛は船出した義経一行を襲いますが、返り討ちにあってしまいます。典侍の局は義経に帝の守護を頼んで自害します。それを見た知盛も体に碇綱を巻きつけ、海中へと身を投げるのでした。

知盛が入水する前の最期のことば、「みるべきほどのことをばみつ」はあまりにも有名。『平家物語』中でももっとも感動的な場面の一つ。Wikiに以下の解説が。

自害にあたり、知盛は碇を担いだとも、鎧を二枚着てそれを錘にし、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して入水したとも言われている。共に入水後遺体となるか、あるいは生きたまま浮かび上がって晒し物になるなどの辱めを受けるのを避ける心得である。
これに想を得た文楽及び歌舞伎『義経千本桜』の「渡海屋」および「大物浦」は別名「碇知盛(いかりとももり)」とも呼ばれ、知盛が崖の上から碇と共に仰向けに飛込み入水する場面がクライマックスとなっている。

「碇知盛」をみるのはこれが2回目。染五郎の知盛は予想通りの英雄ぶりだった。この最期の碇を身体に巻き付けての飛び込みは、圧巻だった。

『義経千本桜』はいままで通しではみていない。たいていは「いがみの権太」、それも「すし屋」だけだったり、「狐忠信」だけだったりした。「狐忠信」の方は澤瀉屋の定番芝居だったので、三代目猿之助で数回みている。今回のこの通しによって、竹田出雲、並木千柳、三吉松洛合作であるこの芝居の全体像を俯瞰できることになった。初演当時(1748年)の観客の嗜好がよくわかり、興味深い。歴史物になるのだけど、平家は当時の人がよく知っていた「お話」だったはず。それをそのまま芝居にしてもなんの面白味もない。そこにどう感興を加えるかが、劇作者の腕の見せ所だったのだろう。「実は」のオンパレードはその一つなのかも。

「安徳帝は実は女だった」、「知盛は壇ノ浦で入水せず、生きていた」、さらには「義経の温情により、安徳帝は生きながらえた」なんて具合に、「実は」が重ねられてゆく。それに義経の兄頼朝からの逃避行が合わさり、プロットが複雑に絡み合わされている。

でも、「ちょっと待って!」と思ってしまった。というのも現代の観客のほとんどは「平家」を読んでいないし、基本的知識もかなり怪しいと推察されるから。私にしても、アメリカの大学院で腰を入れて読むまでは、「平家」のほんの数章ばかりを高校の古文の授業で「習った」だけだった。アメリカでの専攻は日本文学が専門だったので当然だったのだけど、そのときなぜアメリカ人学生が平家を(英語文にせよ)全編読んでいるのに、日本ではそういう教育がなされていないのだろうと、腹立たしかった。

「平家」を、そこに展開するエピソードを、さまざまなメディアを通して知っていた江戸の人たちには、知盛や義経なんていうのは、単に歴史で習う人というのではなく、「親しい」人たちだったはず。だから竹田出雲たちの「実は」をおもしろがり、楽しめたのだろう。

演者では義経を演じた松也が、ひところの浮ついた感がなくなってよくなっていた。亀井六郎役の歌昇、片岡八郎役の巳之助、それぞれ憎たらしい感じがよかった。とはいえ、巳之助、なんで悪役なの?「大物浦」では顔を真っ赤に塗って出てくるので、最初彼とは分からず。彼の演技の繊細さ、声の良さがまるで活かせていなくて、不満。武田タケル君は年齢には思えない落ち着きぶり。まったく動じていなかった。典侍の局役の猿之助が上手いのは予想通り。でもこちらもかなり不満。というのも、「大物浦」の芝居のテンポがスローすぎて、彼の良さがまるで活かせていなかったから。特に最後。あのずっと下を向いた不自然な姿勢はないでしょ。気の毒だった。まあ、このあとの第三部で彼は自分の思い通りの舞台を展開し、溜飲が下がるんですけどね。

なによりも染五郎の知盛が圧巻だった。彼が出ているときだけ、舞台が活性化しているようだった。碇を背負い、綱を巻き付けてそのまま海に飛び込む場面では、ぐっときてしまった。仰向けに飛び込むんですよ。彼のあの奈落への転落を思い出してしまい、思わず、「あー!」と叫んでいた。

それと、一つ気づいたこと。なんて今更の感があるのだけど、「エヴァ」の碇シンジの「碇」が「碇知盛」からきているっていうこと。「新世紀エヴァンゲリオン、もうひとつの視点」というタイトルで、西村創一郎という方がエヴァンゲリオンと平家との関係性を論じておられる。やっぱり「碇」は「碇知盛」からきていたんだと納得。