yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

東本願寺での味方玄師の『経正』 in 「第37回テアトル・ノウ 京都公演@東本願寺能舞台 9月24日

この日の公演は能が二曲と狂言が一曲。明日から東京なので、この胸に堪えた舞台について詳しく書くのは、東京から帰ってからにする。

東本願寺での舞台ということで、期待に胸膨らませて出かけたのだけれど、それは裏切られなかった。おそらくあの場にいた500人(!)近い観客も同じ想いだったに違いない。味方玄師の舞台なので、「当然!」と言ってしまえば確かにそうなんだけど、今回は彼のこの舞台への想い入れに、いつもとは異なる尋常ならぬものを感じてしまった。30分前に到着したので、舞台と観客席の様をスマホで撮影。かなりピンボケだけれど、感じだけでも。私の席は最後列なので、二つ目の写真に写っている場所より後ろ。

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(京都市長とかの)世俗お偉方たちの「挨拶」もなし。すっきり!味方玄師の矜持を感じた。舞台は舞台のみで完結すべきですよね。日文研所長の挨拶なんてのも要りません。

能は『経正』と『融』の二本。いずれも素晴らしいし、とくに『融』は世阿弥の手になるものではあるのだけれど、ここでは『経正』をとりあげる。『経正』は作者不詳となってはいるものの、いただいたチラシには「元雅作者説も出ている」との解説が。これ、腑に落ちます。世阿弥の長男で三十代で伊勢に客死したと言われている元雅。今夏、ロンドン大学図書館で能関連文献を読み漁ったとき、強く惹かれたのは元雅だった。父世阿弥との浅からぬ確執があったと想像される元雅。彼の作品には「親子もの」や若者の屈折した想いを描いた作品が多い。まさに父子の関係を俎上にあげるフロイト精神分析の対象となりそうな作品群。常々、この元雅、どんな人だったんだろうって、想像を膨らませている。たしかにこの作品には父—子関係を連想させるような背景が。以下に例によって「銕仙会」の能楽事典からお借りした演目解説をアップしておく。

概要

源平の合戦で戦死した平経正の追悼のため、経正と親しかった仁和寺門跡・守覚法親王のもとで法要が営まれることとなった。仏前には経正が生前愛用した琵琶の名器『青山(せいざん)』が置かれ、法親王の弟子・行慶僧都(ワキ)らが一心に冥福を祈っていると、灯火の影に経正の霊(シテ)が姿をあらわす。しかし行慶が顔を上げると、霊は再び消えてゆき、声だけが聞こえてくるのであった。僧たちは音楽を愛した経正のために管絃を手向け、経正もまた、人には見えぬ姿ながら、青山の琵琶を弾きはじめる。ひとときの夜遊に心慰める経正であったが、そのとき俄かに苦しみだし、再び灯火のもとに姿を現した。経正は修羅の苦患に苛まれつつも、自らの姿の見えることを恥じ、灯火の中に飛び込んでしまう。吹き消された灯火の暗闇の中に、経正の霊は消えてしまうのだった

仁和寺門跡、守覚法親王や僧都行慶と経正との「関係」はまさに父—子を連想させる。

玄師の経正は、橋掛りに登場した出端からかっこいい。でも、それは大人のものではなく、幼さの残る十代の若武者のそれ。雄々しく振舞いながら、どこかに若さがにじみ出ている。この初々しさを所作と声で表現するのは、やはり高齢の演者には無理。玄師はこれ以上ないほど、初々しさとそれに伴う「未熟さ」を表現して秀逸。その初々しさは可愛くもあるのだけれど、同時に弱さでもある。それを表現するように(すでに十代を過ぎた)演者に求めるのは、かなり無理があるはず。でも玄師はそれを完璧に表現されたんです。私たち観客は、ただただ、愛おしく思いますよね、こういう経正を。この幼さゆえの死を、どれほど無念に感じることか。まして、経正が己を恥じて灯火に我が身を投じるというその潔さに、いかほどの涙を流すことか。

玄師はこの経正を「生きて」おられた。だから、彼が橋掛りに「消える」と、観客は安堵の息を漏らしたのだと思う。悲しいけれど、でもこの舞台によって、経正の霊は慰撫されたはず。そうじゃなきゃ、あまりにも哀しい。このあとを引く観客の気持ちを、十分に受け止めての舞台だった。