yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

林宗一郎師シテの爽やかな脇能『養老』 in「京都観世会1月例会」@京都観世会館1月12日

脇能とは『翁』の後で上演される能で、神をシテとする能のこと。『養老』は男神能。作者は世阿弥。今回の舞台は『翁』の延長で、お囃子方も地謡もほぼ同じ。『翁』との連続性が際立たされていた。

世阿弥の能はどこかスッキリとしていて、爽快感がある。ごちゃごちゃしていない。かといって複雑さがないということではなく、雑味を捨象することによって、核=主題となる部分をより明確に際立たせるということ。その核の精神は一筋縄では行かない複雑さをはらみ、また深淵でもある。でも爽やかなんですよね。情に溺れることを演者自身にも阻み、他者(見るもの)にも阻止する。

宗一郎師の『養老』はこの爽快感で抜きん出ていた。今まで私が見てきた宗一郎師のシテはもっと重く、苦しくなるような、そしてその重さでこちらを煽るような、そんな演目が多かった。この『養老』はその重さを感じさせないものだった。あくまでも静かに、そして穏やかだった。ただ重くないわけではなくて、後場の山神の舞では制御された、一見穏やかに見える舞に、やはりある緊張感は漂っていた。それは、この世が果たして神が賀ぐ麗しい御代になり得るのかという、そんな疑問が舞台、客席にあったからかもしれない。 でも神はあくまでも清らかで、穏やかだった。

『養老』は一度京都駅での薪能で見ている。片山九郎右衛門師がシテだった。記事にしている。その時は迫力のある九郎右衛門師の舞、そして地謡の恐ろしいまでの野太い合唱に「現実界」の裂け目を見た気がした。今回の宗一郎師のものは、同じ演目とは思えないほど、印象が違っていた。こちらはあくまでも現実界を超越した象徴界そのものの神が舞姿になった印象だった。

ただ、お二人とも演技のキモは、二律背反的な神と人との間の齟齬であるように思った。その齟齬のギャップの程度をどう解釈するかが、違いとなって出ていたのかもしれない。非常に興味深かった。

演者は以下。

前シテ 老人の樵夫 林宗一郎

後シテ 山神    林宗一郎

ツレ  樵夫    樹下千慧

    天女

ワキ  勅使    小林努

ワキツレ従者    有松遼一

    従者    岡 充

アイ  里人    茂山千三郎

 

小鼓        大倉源次郎

大鼓        石井保彦

笛         森田保美

太鼓        前川光範

 

後見        大江又三郎  浦田保親