yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

松風の「憂き」に同化した能『松風』in 「京都観世会11月例会」@京都観世会館11月27日

京都観世会例会は11時に始まり、だいたい4時半ごろまでの長丁場。能3本と狂言1本、それに仕舞という構成になっている。体力に自信のない私は、2本目の能から参加した。能2本ともに素晴らしい舞台で、熱い想いを胸に帰宅した。

以下にチラシの表と裏をアップさせていただく。

改めて、『松風』の演者は以下である。

シテ 松風   観世銕之丞

ツレ 村雨   片山伸吾

ワキ 僧    福王和幸

アイ 土地の者 茂山七五三     

小鼓      吉阪一郎

大鼓      亀井広忠

笛       杉信太朗

 

後見      青木道喜  大江信行

 

地謡      樹下千慧 河村浩太郎 大江泰正 深野貴彦

        橋本光史 浦田保浩 片山九郎右衛門 味方玄  

ちなみに作者は観阿弥で世阿弥がのちに改作した。

さすが世阿弥改作の能。ひとつひとつの言葉が胸に迫る素晴らしさである。静的であると同時に動的でもあり、その間に生まれる緊張感に思わずシンクロしてしまう。チラシの場面(片山幽雪師シテ)は前場で、シテの松風が舞台に置かれた汐車の桶に海水を注ぐ所作をする場面であるけれど、ここにもその静と動との調和がみられる。詞章は以下のようになっている。

汲むは影なれや。焼く塩煙心せよ。さのみなど海士人の憂き秋のみを過さん。

松島や雄島の海人の月にだに影を汲むこそ心あれ影を汲むこそ心あれ。

「影」は松風・村雨を残して都に帰ってしまった行平の影であろう。「憂き秋」といのは、もはや恋人が帰ってくることのない嘆きであり、嘆きの思いはつきない。俯き加減の面にその憂きが滲み出ている。片山幽雪師のシテは「憂き」の一つの完成体を伝えてくれている。

今回の観世銕之丞師のシテもこの傾けた面に万感が込められていて、感動した。銕之丞師のシテは5回ばかり拝見しているけれど、今回のものが一番胸に迫った。どう言えばいいのか、シテへの想いの強さ、深さが松風の造型として立ち上がってきていた。見ている側もそれにシンクロしてしまった。

もう一箇所、心に残った場面がある。あの有名な行平の歌、「(たち別れ)稲葉の山の峯に生ふる。松とし聞かば。今帰り来ん」の歌をきっかけとして、狩衣を着て舞う中の舞、破の舞へと移行する場面である。テンポが速まり、見ている側の鼓動も高まる。「ああーっ!」と声をあげるうちに、舞は終わる。まるで何事もなかったかのように。この緩急のつけ方も見事である。演じきられた銕之丞師の楚々と橋掛りを帰って行くさまに、万感の想いが感じられた。

さらにこの舞台を確かなものにしていたのは、地謡だった。圧巻だった。さすが九郎右衛門師と玄師がリードされる地謡だった。さる会の最近の『松風』公演がYouTubeにアップされているけれど、地謡が揃っていなくて、もやっとした感じになり、緩急が感じられなかった。その所為でことばの美しさが半減してしまっているように感じた。京都観世会の演者の方々の素晴らしさを痛感した。調子が揃っていない地謡を聴いたことがないから。

笛の杉信太朗師もとてもよかった。シャープでいるのに温かさがある笛。聞き惚れた。