橋本雅夫師シテ(深草少将)、橋本光史師ツレ(小野小町)の組み合わせが、さすが父子と思わせる息合わせが素晴らしかった。シテ=深草の少将の悲哀の濃密さに、なんども涙が出そうになった。
『通小町』をフルで見るのは今回が二度目。一昨年の12月、同じく京都観世会館の舞台で井上裕久師がシテ、大江泰正師ツレで見ている。
そこに銕仙会能楽事典からの「演目解説」をあげているが、今回は本公演チラシの裏掲載の番組表と「演目解説」をアップさせていただく。
上記の記事にも書いたのだけれど、まず、ドラマチックというか、激しい感情の応酬とそれに伴う所作に驚く。改めて調べてみて、観阿弥作というのに初めて気づいた。そういえば、観阿弥の作品は世阿弥のものとは違っていて、もっと古形というか、能が一般観衆の前で演じられていた頃の形を保っていて、それがゆえにドラマ性が際立つものになっていると読んだことを思い出した。世阿弥といえば複式夢幻能を嚆矢とするけれど、父の観阿弥はそれとは違ってもっと大衆的というか、わかりやすいと「演劇」だったのかもしれない。観阿弥作とされる『卒都婆小町』にもそれは当てはまるように思う。
構成はちょっとイレギュラーというか、シテの登場が後場になってからで、前半はツレの独り舞台。普通はシテが最初から出てきて、後場で亡霊として再登場するのが多いが、これは違っている。
後場、小町の幽霊のツレが僧の回向を受けて成仏しかけたところに、揚幕の向こうから少将の声が聞こえるという趣向。その声の場が長めである。だから、揚幕が引き上げられ、シテが姿を現すまでに、すでに劇的緊張感が場に漂っている。観客は受戒しようとした小町に安堵しかけている。そこに地の底から湧き上がってくるような亡霊の声。それも恐ろしいまでの恨みに満ちたもの。
幕が上がって橋掛りに出てきたシテは被り物をして、いかにも老いたヨボヨボの姿。そのシテが被り物を投げ捨てた発した声は姿に似合わず力強い。「包めど我も穂に出て 尾花招かば止まれかし」、さらには「さらば煩悩の犬となって、討るると離れじ」と小町に迫ってくる。ついにはツレの袂を持って引き止める。ここがクライマックス。愛憎の闘いがここまで露骨というか目に見える形となって示されるのは珍しいのではないだろうか。煩悩の苦しみがこういう風に示されると、まるで現代劇を見ているような気がしてしまう。
それからの恨みと嘆きが胸を打つ。「君を思へば徒歩裸足」、「月には行くも闇からず」と綿々とかき口説く。さらに、「かやうに心を、尽くし尽くして榻(しぢ)び数カス、算みて見たれば、九十九夜なり」とあの有名な「百夜通い」の果たせなかった口惜しさと怒りになる。
しかし、次第に恨みが少しずつ減じて、より美的な境地というか昇華された雰囲気になってくる。それが美しい色彩の詞、「花摺衣」はなすりごろも)、や「色重」、「裏紫」、「藤袴」といったシテと地謡の掛け合いに表れているように思う。暗い闇の中に咲く紫、藤色の花に自身を重ねる少将のイメージ。それがやがては紅の狩衣をきた自分、華やかな自身へと変身するところに、少将の矜持を感じ取ることができる。成仏できたかどうかは(成仏したことになっているが)不明なままではあるものの、最後の最後に少将をglorifyして終わるところに、観阿弥の愛を感じてしまう。
今までに見た能の小町ものの中で、もっとも感動した作品だった。