亡き父母の菩提を弔うのに、親不孝の権化のような私が「般若心経」を唱え始めたのだけれど、「般若心経」の哲学というか思想に衝撃を受けた。ネットの葬儀社(!)のサイトに和訳が載っているので、リンクさせていただく。
なんと、観自在菩薩が到達した深遠な「智慧の完成(般若波羅蜜多)」を経文にしたものが「般若心経」だった。その要諦は以下である。このサイトから引用させていただく。
人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。
このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもない。目に映る世界から、心の世界まですべてないのだ。
さらに、「般若心経」は「これこそが智慧の完成の修行であり、それは「大いなる真言」になる」と説く。般若心経の終盤、「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」(智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りよ、幸あれ)という部分をよむときの「開放感はそれだったのか!」なんて勝手に腑に落ちていた。
この哲学、どこかで読んだという記憶が蘇ってきた。たしか、三島が晩年(というのは若干語弊があるけれど)、興味を強く持って研究していたという「唯識」である。たしか最後の四部作、『豊饒の海』を執筆する前後に熱心に研究していたことを澁澤龍彦が書いていたのを思い出し、Wikiの「唯識」に当たってみたら、「三島由紀夫と唯識」の項で確認できた。
「三島由紀夫の演劇」をテーマにペンシルベニア大学で博士論文を仕上げていた頃は、とてもそこまで手が回らなくて、そのままになってしまっていた。もっとも、頑張っても到底太刀打ちできるような哲学・思想ではなかっただろう。ただ、三島のご母堂が三島自決後に「唯識」を知ろうと仏教講座に通われたというのを後で読み、私も後塵を拝そうなんて思ったこともあった。帰国して就いた大学の同僚にインド哲学の人がいたので、ちょっと当たってみたのだけれど、鼻先で嗤われてしまった。やはりそれほど、専門外の人間には手に負えないものなのかと、納得した。
それから幾星霜、今頃になってこの哲学の片鱗に触れることになるとは。当該Wikiは「唯識」と「般若経」との関係を以下のように述べている。
唯識は、初期大乗経典の『般若経』の「一切皆空」と『華厳経』十地品の「三界作唯心」の流れを汲んで、中期大乗仏教経典である『解深密経(げじんみつきょう)』『大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)』として確立した。そこには、瑜伽行(瞑想)を実践するグループの実践を通した長い思索と論究があったと考えられる。
たしかに般若心経の「一切皆空」は強烈である。それがどういう経緯でインドから日本へと入ってきたのか、日本ではいかに受容されたのか、そういう疑問は多々あるけれど、それを超えてこの「一切皆空」の思想はインパクトがある。「空」がここまでの強さをもつ思想であることを、改めて思う。般若心経はまさにこの「空」の上に成り立っているお経である。その思想に下手に入り込むことを拒否している、そんな感慨も抱かされてしまうお経である。
それをあえて踏み込んで、ミュージックにしてしまった「般若心経」にネットで出くわしてしまった。それが薬師寺寛邦 (キッサコ )さんというお坊さんが唱えられるお経。リンクしておく。彼の中国ツアーの動画らしい。この動画以外にも、薬師寺僧都の「般若心経」はネットに散見される。いずれもとても美しい。
邪道とお叱りを受けるかもしれないけれど、このお経を広く知ってもらうには、こういう手立ても有効かもと思う。