yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

絶句ものだった片山九郎右衛門師の舞囃子「邯鄲」in 「大倉流祖先祭」@大槻能楽堂 6月4日

舞台を縦横無尽に舞い回る動きが多く、力強くダイナミックな舞台だった。しかも、そのモーション一つ一つが勁かった。私の位置からは九郎右衛門師のつま先を上げた白足袋の裏が冴え冴えとよく見えた。すすっと前に出て、さっと回転、またすすっと進まれる。この動きの美しいこと!身体の軸が動かないので、腕の動き、脚さばきが瞬間瞬間で決まっていた。舞を瞬間ごとに切り取っても、一幅の絵になっていたはず。

「猶幾久し有明の月」で前上を見上げる仕草の品の良さ。「雲の羽袖を 重ねつつ」で左手の上に右手に持った扇を重ねる仕草も美しい。また、最後の「邯鄲の枕の上に 眠りの夢は 覚めにけり」のところで一旦舞台に腰を落とし、夢世界と現実とを切断するかのように、扇を上から下ろす所作に深みがある。 

それにしても、詞章に配されたことばのなんとヴィジュアルなこと。だから品格のある舞でないと、詞章負けしてしまう。しかも限りなく哲学的。盧生の夢の中では昼も夜も、そして春も秋も、夏も冬も一度に展開しているのである。だから演者の舞には勁さが要請されるのだろう。少しでも緩めると、この哲学的側面を表現できない。演者にとっては「怖しい舞」なのかもしれない。九郎右衛門師の舞は、これら全ての側面を中に取り入れ、そして完璧な形でアウトプットしたものだった。九郎右衛門師の内面がのぞいているような、そんな気がした。

演者の方々は以下。

シテ    片山九郎右衛門

小鼓    村上泰子

大鼓    山本寿弥

笛     左鴻泰弘

太鼓    上田悟

地謡    味方玄  青木道喜  長山耕三

地謡がメロディアスで素晴らしかった。

能『邯鄲』の解説を『銕仙会 能楽事典』の「作品概要」からお借りする。

中国 邯鄲の里を訪れた悩める青年・盧生(シテ)は、宿屋の女主人(アイ)から不思議な枕を借りる。それは、わが身の進むべき道を悟ることが出来るという枕。盧生は早速これを使って昼寝をする。暫くして勅使と名乗る男(ワキ)に起こされた盧生は、帝位を譲ると告げられ、そのまま大臣たち(ワキツレ)の居並ぶ王宮へと連れてゆかれる。栄華の日々を過ごし、不老長寿の酒で大宴会を開いて歓楽の限りを尽くした盧生であったが、そうする内に人々の姿は消え、盧生は再び眠りに落ちてゆく。盧生が目を覚ますと、そこはもとの宿屋。今までの出来事が全て夢であったと悟った盧生は、この世の真理を知って満足するのであった。