yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

魂を揺さぶる羽生結弦選手のSP in「北京オリンピック2022」

それにしても美しい。超俗的、もっというなら神的な純粋美。リンクが点数を競う場でなくて、この世でもっとも美しい人の美しい演技を披露する場になっている。リンクにできた溝に靴がはまって最初のジャンプをミスしてしまったことさえ、その美にいささかも瑕疵を残さない。否、むしろ演技の一環であったかのような、流れの一つであったかのようなそういう自然さ。そんな選手は今までにいなかったし、これからも出ることないだろう。

観客の熱狂、声援が終始止むことがないのは、その美を堪能したいから。そして力の限り「是!」を表明したいから。だから羽生結弦選手はずっと「羽生結弦」でい続けなくてはならない。羽生結弦が羽生結弦であるためには、リンクに立たなくてはならない。私たちの「利己的」な想いを彼なら受け止めてくれるだろう。

私は昨年12月に「ストイシズムがもたらす究極美を具現化した!羽生結弦選手のSP in 「全日本フィギュア選手権2021」と題して記事をあげている。

曲はオリンピックと同じ清塚信也氏編曲のサン=サーンス作曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」。ここでは自己完結的ともいうべき研ぎ澄まされた演技の究極を彼の演技にみて、以下のように分析した。

対比のうちに生まれる一人芝居のドラマ。それは、しなやかさの中に強さを、激しさの中に緩やかさを、harmony の裏に秘められたdiscord/ violenceを、さらにはtemperanceの仮面の下にあるradicalを表している。

なめらかに整っていたバランスが、ジャンプによって破られ、踊り跳ねる過激な流れになり、緩急の流れの中にドラマが編み出される。それは決して平穏なものではなく、あのシットスピンの過激さで終焉を迎えるのだ。でも、それは唐突というよりもむしろ彼の自己完結性を際立たせてしまう。観ている者はその完璧さに圧倒されどこか置いてきぼりを食らってしまう。なぜなら一切の媚びを排した完結だから。

その時の感激が今回も甦ってきた。

まるで水色の精が顕現したかのような美しい身体が舞うようにリンクを回ってゆく。前半、その滑らかな流れの中に時折肢体をひねる所作が入り、それが流れに点を打ってゆく。そして後半部では一転、激しくダイナミックな動きになり力強いステップ、強烈なスピンによって最終部になる。まさに能の「急」の舞である。

能では激しい急の舞のあと、唐突にストンと舞台は終わる。静かに去ってゆくシテ、見所には張り詰めた静寂。そのときの空気密度の濃さと、羽生選手の演技を見終わった後の観客席の間には共通するものがある。もちろんテレビやPCの前で演技を見ている者も同様の緊張感を共有することになる。

全日本の折にも感じたけれど、羽生選手が演技前にする羽生流「祓う」所作と祈りの所作。おそらく精神統一のものだろう。また「SEIMEI」由来のものもあるかもしれない。神が降りてきているとしか思えない「羽生結弦」という人、その演技。

衣装もこれ以上ないほど美しい。今までで最も彼の美を愛でるものになっていたように感じた。

インタビューでの「氷に嫌われたな」という表現も彼らしく、麗しい。