yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「Origin」を超えて——羽生結弦選手フリー演技「オリジン」in 「世界フィギュアスケート選手権2019」

羽生結弦選手はプルシェンコ選手の「オリジン」を起点として、どのようにして自らのドラマを創り上げたのか。その経緯を見届けることができた。

しゃがみこみ腕を前後に広げた最初のポーズは、彼の「オリジン」たるプルシェンコ選手のもののコピーのようでありながら、コピーではない。彼の「思想」がここに集約されているように感じた。最終ポーズもプルシェンコのあのニジンスキー・ポーズとは異なっていた。プルシェンコ選手は冒頭も最終の決めポーズも共に「ニジンスキー」を模した立像だったのに対し、羽生選手のものはリンクにしゃがみこんでのもの。最初と最後を揃えるという点は同じでも、裏打ちされた思想は違っていたということ。羽生選手の座像にはやはり「能」との親和性を感じてしまう。

プルシェンコ選手がトリビュートしたニジンスキーの「バレエ・リュス」はある意味、舞踊界における西洋的な美の理想像へのアンチテーゼを提出したもの。ペイガニズムを強く感じさせる。異端で以って正統を制覇する意思が感じられる。極めてアグレッシヴ、そして男性的。プルシェンコ選手がそれに深く想い入れたのは、やはりロシア的な感性によるものだろう。ロシアは西洋正統にはカウントされないですからね。あそこまでプルシェンコ選手が見事にニジンスキー舞踊の美を具現化できたのは、彼がロシア人であることによる。また、彼が男性的な人であることにもよるだろう。

そのプルシェンコ選手の「ニジンスキーに捧ぐ」を自らのオリジン(起点)と位置付けて、曲もそのまま使用した羽生選手。果たしてその演技は、オリジナルを模しているようでいて、そうではなかった。ベッタリとしたコピーではなかったところに、羽生選手の意思と思想が明確に出ていたように思う。

最初のところはしゃがみこんでいるものの前後に伸ばした腕が戦闘モードに入っていることを示している。ニジンスキー的な腕の角度の付け方がスケーティングのところどころに入る。身体のひねりが以前よりも頻繁になり、それらが尋常のスケーティングにしてはかなり異端な印象。でも無理感がなく、自然。流れに緻密な計算がされている。だからひねりの流れが流線的で、どこまでも滑らか。手、腕の動きも以前よりもドラマチック。音楽が表現しているドラマ性があますところなく具現化されていた。それはやはりプルシェンコ選手と共通するものだった。

ジャンプに入る前のスケーティングは、以前にも増して自然。完璧な流れが途絶することは一度もなかった。それはプルシェンコ選手があえてニジンスキー的な「断絶」を組み込んでいたのとは、対照をなしていた。四回転の高さも高く、これ以上望めないほど美しい。他選手の器械体操的な四回転とは、そのクオリティの高さで一線を画している。究極のジャンプを見ている感じ。

後半部の煽り立てるような音楽にも完璧に乗った滑り。身体のひねりもジャンプも全て一つのドラマになっている。ドラマを形作ってゆく羽生選手は能のシテのようだった。敬虔な祈りを強く感じさせられた。

プルシェンコ選手の「ニジンスキーに捧ぐ」はそれ自体が完結していて、あの芸術性を超えるのは難しいはず。そのままコピーするのは不可能。羽生選手が採った戦略は日本的な感性と思想でもってそれを「超え出る」ということ。そしてそれが形となったのがこのフリーの演技だったように思う。プルシェンコ版は男性的で戦闘的。それに対し、羽生版は戦闘的ではあるものの、戦い方がかなり違っている。男性的というにはあまりにも美しい。男性性と女性性の間をたゆとう感じ。このゆらぎの感じを芸術的な高みにまで持って行けるのは、羽生選手が「羽生結弦」であるからこそ。