yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「Originから新しい門出へ」の意思表示だった羽生結弦選手フリーの演技「Origin」@2018年グランプリシリーズ・フィンランド大会

羽生結弦選手の今回のフリー曲は、プルシェンコ選手が以前に使ったエドウィン・マートンの「ニジンスキーに捧ぐ」を編曲した「Origin」なる曲だった。ニュースを聞いたとき、「無謀!」って思ってしまった。でもそここそが、羽生結弦選手が一旦戻り、そして再出発しなくてはならないところだったのだと、気づいた。そして、彼がこれからも挑戦し続けることを、世に向かって約束したのだとも気づかされた。

プルシェンコ選手の「ニジンスキーに捧ぐ」の演技に表象されていたのは、ロシア的ペイガニズム。そのペイガニズムの根底には、(芸術に昇華されてはいるものの)エロティシズムが存在する。エロスが孕む暴力性がある。そのペイガニズムをそのまま模倣するのは、異邦人である羽生選手には無理。しかし、この暴力性こそが、「ニジンスキー」では極めて重要なエレメントといえる。「ニジンスキー」を選んだ羽生選手は、ペイガニズムとそれが孕む暴力性を他の形で表す必要があった。それが「Origin」の構成最後に来ている「魔王」だったのではないだろうか。エロスの代替が「暴力と死」を表象する魔王。こちらもペイガニズムの一つの形。羽生結弦さんのあの髪型、衣装、そして演技がいつもより以上にアグレッシュヴなのは、魔王を憑依させているからだろう。

それこそ、羽生選手のoriginになっているプルシェンコ選手の演技には、ニジンスキーの「バレエ・リュス」での舞踊が、所作が多く採用されている。それは優雅というより、一種異様。手、腕、脚、足の角度は、美を追求したというより、むしろそれを打ち破る感じがする。およそ調和的でない。しかし、猛烈にエロティックではある。そこにあるのは、一つのものに収斂させ、統合させるmovementではなく、分離させ、断片化させる流れ。この不安定さが、祝祭がもつめでたさを排し、そこに潜む怖しさを描き出す。エロスが孕む暴力性が立ち上がってくる。プルシェンコはこのエロスとその暴力性を、伝説にまでなった完璧さで描ききって(踊りきって)いる。芸術的にもこれ以上ない完璧さで。

「至高美」を追求して来た羽生結弦選手。ここに一つの方向転換があった?「美」から「崇高」の方へと。もちろん今までの演技にも英雄ヤマトタケルの最期を思わせる「崇高」的なものはあった。でも、今回のこの選曲は、優雅さを極めた演技だけではなく、それを超える「過激」(暴力性)をもプラスすることで、「崇高」なるものにより近づこうとしているようにうつる。それを「Origin」と言い切るところに、彼の精神的成熟をみてしまう。いろいろ文献、資料を当たったであろう「研究」の成果も。

ニジンスキーが深く関わった「バレエ・リュス」は、西欧世界から見ると「異端」であり、西洋正統路線を死守するバレエ界にとってみればとんでもなく異様なもの。それにもかかわらず(というかだからこそ)「バレエ・リュス」は伝説になった。

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そのニジンスキーに、フィギュア界の異端児、プルシェンコ選手が挑んだ。そして、プルシェンコ選手の「ニジンスキーに捧ぐ」も伝説になった。ニジンスキーが創り出した世界は、西洋正統(オーソドックス)に組み込まれるのを拒むロシア的世界。ロシア的なペイガニズムを表象するのが、ニジンスキーといえるだろう。もっとも宗教自体は「ロシアン・オーソドックス」っていうんですけどね。 

「バレエ・リュス」を西洋正統への挑戦としてディアギレフと創り上げたニジンスキー。そのニジンスキーへのオマージュとして「ニジンスキーに捧ぐ」を演技に使ったプルシェンコ選手。彼の演技は技術的にだけでなく、芸術的に極地を極めていた。しかもそれは明らかに、プルシェンコ選手のフィギュア正統へのアンチテーゼでもある。「ロシア」的であるということは、西洋正統には組み込まれない「オリエンタル」(PCに抵触するけど、ご容赦)なエレメントを内包しているということ。「ロシア」の「西洋正統」への挑戦でもある。彼の演技は最高峰を極めていて、それによって西洋正統を超えていた。オリエンタルがオキシデンタルを凌駕、かつ呑みこんでいた。

ひるがえって羽生結弦選手。彼がロシア人になることは不可能。だから、西洋正統への「挑戦」はありえない。この曲を演技するには、プルシェンコ選手とは違ったアプローチを採らなくてはならない。そもそも羽生結弦さんがプルシェンコ選手の「ニジンスキーに捧ぐ」に惹かれたというのは、おそらくそのペイガニズムに反応したからだと思う。幼くしてこのペイガニズムに反応するというところに、彼の常人ではない芸術的感度の高さがある。

 プルシェンコ選手が西洋正統へのアンチテーゼとして採用したのがニジンスキーのペイガニズムだったとすれば、羽生選手は何を持ってくればいいのか。(西洋では認知度の極めて低い)「日本の神々」を持って来ても意味がない。しかし、「魔王」ならシューベルトの曲で人口に膾炙している。祝祭性に潜む暴力性を描くのにもぴったり。こんな選択があったのではと、勝手に想像している。

演技も非常にアグレッシヴなもの。優雅で調和のとれたスケーティングというより、破調。最初のちょっと異様なポーズはまさにバレエ・リュスのもの。「春の祭典」にあったように、地の底から新しい芽が這い出る感じを表している。手足、腕脚の角度のつけ方も普段の優雅さとは違った不気味さがある。プルシェンコ選手にもこの異様さ、不気味さがあったけれど、こちらは完全に羽生節。最後の手のポーズは「天と地」を表象する「SEIMEI」ですね。もちろんそれは能学から来ているので、極めて日本的だといえる。羽生結弦選手の決めポーズがロシアンペイガニズムのものでなく、日本のものであったところに、彼の矜持を、そして哲学を見た。矜持と過激とが見事に一つの形に結実した哲学的演技だった。新たなる領野への挑戦を「約束」した演技に見えた。

<追記>

羽生結弦選手の演技の断片がずっと頭を離れなくて、眠れなくて起き出してきてしまった。どうして引っかかるのかとよくよく考えたら、今回の選曲、演技が「異端への挑戦」という点で、かつペイガニズムをあえて前面に出しているところで、彼の2016年グランプリ・ファイナルでのSPの曲、「Let’s Go Crazy」の延長線上にあったから。しかも、「エロス vs.タナトス」というテーマも共通している。違っているのは、より明確に、過激にこのテーマを表現したところかもしれない。何れにしても、新しいステージへの挑戦が明確に示されているように感じた。