プルシェンコ選手の「ニジンスキーに捧ぐ」は、ニジンスキーが一翼を担っていた「バレエ・リュス」を氷上に再現させる試みだった。そしてその試みは見事に結実していた。その「ニジンスキーに捧ぐ」を「オリジン」として氷上にこれ以上ない美しいスケーティングを花咲かせた羽生結弦選手。
「Originオリジン」を最初に映像で見たとき、羽生選手の強い想いがこちらに共振して、身体が震えた。そのリスペクトと感謝の想い、それ以上に自分の独自の宇宙を立ち上げようという意気込みがダイレクトに伝わって来たから。
今回のNHK杯の「Originオリジン」は、ちょうど一年前のフィンランド大会の時と同じようでいて、違った感じがした。羽生選手独自の宇宙は宇宙なのだけれど、それが何か「思想」とでもいうべきものに裏打ちされたように感じた。思想がより強固なものになったことが感じられた。
怪我に悩み苦しんだ過程がこの二つの「Originオリジン」の間に入っている。彼はこのNHK杯放送でのインタビュー中、大学のコースでとっている「心理学」になみなみならない興味を持っていると明かしてくれた。「そうなんだ!」と、思わず膝を打った。怪我治療・療養中に、改めて自身のスタイルを見直し、それで持って「Originオリジン」を再び滑る。そこには間違いなく「療養」中に学んだ成果が出ているはず。フィンランドの時とはどこか違った感触を私が感じたのは、そこに理由があったのかもしれない。
彼は哲学の人だと思う。思想の人でもある。今回の「オリジン」には確信犯的な「思想の成熟」があったように思う。
起点はプルシェンコ選手の「ニジンスキーに捧ぐ」。以前の記事にも書いたのだけれど、ニジンスキーが踊ったのは「バレエ・リュス」。西洋の伝統からは外れた異端的なバレエだった。それも当然、ロシアは西欧世界からはオリエントの一部とみなされていて、この「リュス」とは「ロシア風」、つまりオリエント的という意味だった。他の追随を許さない技術的最高峰、そこにこのロシア風を接ぎ木してみる。あえてオリエンタリズムでオクシデンタリズム(西洋)に対抗するという、自負がひしひしと伝わるバレエを、ロシア選手のプルシェンコは完成させた。
羽生選手は日本人。オリエンタル(Political Correctnessに抵触しますがご容赦)に属している。プルシェンコはバレエ正統の「ヨーロッパ・バレエ」に、ニジンスキー同様「オリエンタリズム」で挑んだ。羽生選手はそこを起点にして、独自の「羽生流オリエンタリズム」を創り上げようとしている?
私が感じたのは、一年前にはそこまで確信的でなかったものが、思想に近いものになりつつあるのではという感触だった。そこに心理学というか解釈学の影を見たように思う。「オリジン」の再解釈である。
羽生結弦選手、彼にはまずプルシェンコ選手が導入したスケートと「舞」との出会いがあった。それが彼の演技のバックボーンであり、その起点になっているのは間違いない。それが日本の文化・歴史の地平へと吸収され、融合され、やがては「羽生結弦」独自の地平を創り上げる過程中にある。自らの起点(オリジン)の生成を遂げつつあるということかもしれない。それは過去の「オリジン」すべての融合でもある。
演技をサポートする衣装がその融合を示しているように思う。洋vs.和。男性的鋭さvs.女性的柔らかさ、加えて縫い込まれた金ラメは地上的な時分の華の華やぎを紫地は天上界的高貴さを示している。
また演技自体も(度々言及して来たことではあるけれど)日本的な静かな舞の要素と洋の華麗な踊りとの融合。ジャンプにすらこの融合が見られる。音楽も然り。激しさと柔らかさ、そこに生と死を思わせるテーマが絡んでいる。ジャンプという純然たる「技術」にすら美を持ち込み、ジャンプをジャンプとして独立させないで、スケーティング美しい流れの一部としてしまっている。滑らかさ(柔)と剛との競合、究極は天と地の融合。
他の選手にはこの思想性が感じられない。技術的には素晴らしいものがあっても、それだと見ている人の心を打たない。感動させられない。私が惜しいと思うのは、日本の他の選手が、自身のバックグラウンドを全く意識していないこと。技量的には上手くなっても、それだと先に行かないと思う。「自分は何者なのか」、「自分独自のスケーティングとは何なのか」という問いを、おそらく一度もしていないのだろう。だからそういう「余計なこと」で悩むこともないのだろう。「哲学」の欠如!それは東洋系アメリカ人、カナダ人選手にもいえるように思う。
羽生結弦という人が現れてくれて、私たちは天に感謝しても感謝したりない。最高の技術とそれを支える思想、それが氷上にこの世のものとは思えない美を出現させてくれるのだから。