yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

水の精、羽生結弦選手の舞「秋によせて」SP演技 in「世界フィギュアスケート選手権2019」

アルゼンチン出身のピアニスト、ラウル・ディ・ブラシオのバラード曲。衣装は淡いブルーの涼やかなもの。ピンク衣装を「春よ、来い」のためにとっておいたとすれば、このブルーの衣装はこれから寒くなる季節、秋を表象しているのだろう。

ショパンのバラード1番を思わせる重い出だし。片腕を挙げた動作とその手の先を見つめる視線が彼の決意を示している。「直線」はそこまで。あとは滑らかな流線を描く四肢と身体(body)の饗宴である。両腕を天に向けてあげ、交差させる、身体をくるくる回しながらの繊細な腕の振り。すべては以前のSP時よりさらに凝ったものになっている。

片手を上にあげ、顔を向ける、次に両腕を挙げ爪先立ち。そこからブレークして腕と脚をゆるめる。音楽のスピリットが彼に乗り移り、音楽の精のよう。くるくる舞うモーションもその空間、時間の中での必然に見える。心が震えるほど美しい身体の流れ。一つとして無駄なモーションはなく、完璧に流れに組み込まれている。

ジャンプすらも必然に思えてしまう。ジャンプのストレス、それは演技者にだけでなく見ている側にも強いられるものではあるけれど、羽生選手のものには感じられない。その域に到達するのに、どれほどの訓練があったか。それを思うと彼のジャンプ、スケーティングに歓びを感じてしまうのに罪悪感を感じてしまうほど。「目の保養をしているだけでいいのか」と思ってしまう。

中盤のドラマチックな転調——能の「破」に当たる——でもそれは続く。多彩なスピンはまさにダイナミックかつブリリアント!

そこからは能でいうところの「急」になる。より激しく、狂おしく煽ってくる音楽。思いっきり四肢と身体を解放、奔放に舞う。奔放でありつつ抑制が効いている(「自己撞着」ですが)。そして華麗な連続スピンのあと、ストンと終わる。冒頭と同じ立像で。ただ、右腕は横に挙げた姿勢で。

慰め、癒しとしてのバラード曲。曲の思想を伝える表現力は、以前にも増して豊かになっていた。理解への自信がそれを裏打ちしていた。羽生選手がなぜこの曲に親和性を感じたのか、それは彼の演技から伝わってくる。感動が大波のように押し寄せて来た。

羽生結弦選手の「この世ならない」演技を正当に「評価」しなかったジャッジ陣。芸術性を無視できるだけの厚顔。彼らはジャッジをする資格を放棄していたとしか思えない。