「戦士」羽生結弦選手。戦士としての過激性。それをcertifyする禁欲。それを形にすると羽生結弦選手の演技に行き着くのかもしれない。醸し出される美は繊細でいて、どこか冷徹なまでに自己完結的である。孤高の戦士の趣がある。羽生結弦選手の孤独なそして長かった闘いがみえる。孤高が生み出す美をここまで具現化できるのは羽生結弦選手が単なるフィギュアスケーターではなく、自らの哲学をその演技に結晶させているから。
サン=サーンス作曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」はヴァイオリンとの管弦楽曲として演奏されることが多い。「ああ、あれだ!」となるはず。しかし、ピアノ演奏、それもソロになるとかなり違った印象になる。ヴァイオリンの場合は肉感的な豊かさと膨らみ、そこに生まれ出るセンチメンタルな情趣が全体を覆っている。メランコリックな曲調には甘さが漂う。管弦楽との掛け合いの妙もある。
しかし、羽生結弦選手演技のピアノ曲はこれらを全て削いで、もっと音調の鋭利性を屹立させている。あの「春よ、来い」を編曲した清塚信也氏の編曲、ピアノのソロ演奏による「序奏とロンド・カプリチオーソ」。同時に繊細である。繊細でありつつも、一切の脆弱を排して、理知的ですらある。音の強弱の対比から生まれるドラマ性が際立つ。しかもそのドラマは一人芝居。羽生結弦選手がピアノ演奏にこだわったのはそこにあったのかもしれない。
対比のうちに生まれる一人芝居のドラマ。それは、しなやかさの中に強さを、激しさの中に緩やかさを、harmony の裏に秘められたdiscord/ violenceを、さらにはtemperanceの仮面の下にあるradicalを表している。
なめらかに整っていたバランスが、ジャンプによって破られ、踊り跳ねる過激な流れになり、緩急の流れの中にドラマが編み出される。それは決して平穏なものではなく、あのシットスピンの過激さで終焉を迎えるのだ。でも、それは唐突というよりもむしろ彼の自己完結性を際立たせてしまう。観ている者はその完璧さに圧倒されどこか置いてきぼりを食らってしまう。なぜなら一切の媚びを排した完結だから。
しばしの間のあとは興奮の渦。
自己完結的であるということの凄さ。観ている側を突き放しているようでいて、最後はその屹立した完璧で巻き込む。こういう演技ができるのは羽生結弦選手をおいて他に誰もいない。今までも。これからも。「羽生結弦」という宝に。芸術作品に同時代的に立ち会える私たちは幸運としかいいようがない。
フリー曲はまさに「戦士」を標榜する曲、「天と地と」だという。今夕が楽しみである。以前と解釈は変わっているのだろうか。