yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

新たなる章へ! 羽生結弦選手の「マスカレイド」in 「ファンタジー・オン・アイス 富山」

映像でも羽生結弦さんと会場との一体感の熱度の凄まじさが伝わってきた富山公演。「羽生結弦物語」の総決算であり、始まりでもあったように思う。 

リングに頭をつき、すべてを出し切って燃え尽きたかのような羽生結弦さん。おもむろに立ち上がって、ToshIさんの方へ。泣いているToshIさん。涙を拭って、羽生結弦さんを抱きしめる。羽生選手、リンクを去り際に、もう一度「仮面」の手で顔半分を覆う仕草。リンク上で割り剥がした仮面。でも新たな仮面を纏ったんですね。物語は終わらない。また始まるのだというサインにみえた。感動の嵐だった富山の物語は、一旦閉じたんですけれどね。

「オリジンOrigin」、「Crystal Memories」、そしてこの「マスカレイドMasquerade」は、「羽生結弦物語」を時系列に展開したもののように感じた。スケート選手としての起源と、そこから拓けた数々の演技の記憶、そして今や物語の一章を完成させて、新たな「章」を書き出そうとしている。

新たな章を書き出すには、より一層仮装の、もっといえば虚構の構築を考え出さなくてはならない。その仮装を表していたのがこの「Masquerade」の舞台だったように感じた。次なる仮装が、新しい章が、はたしていかなるものになるのか。そこまでこちらに期待させるのは、羽生結弦さんをおいていないでしょう。 

彼にはブレインになっているチームメンバーがいるだろうけれど、それ以上に彼自身のブレイン(頭脳)のそして心の叫びが、こういうフィロソフィカルな演技、舞台を可能にしているに違いない。頭脳だけの人でもない、情緒だけの人でもない、その二つが見事なバランスで持って融合した人。つまり芸術家であると同時に哲学者。私たちが「羽生結弦」という人を得たことは、彼の演技を見ることができる(映像であっても)のは、とんでもない幸運。「こんな幸運に恵まれて、いいのだろうか?これを観賞するだけの徳を自分は積んでいるんだろうか」と思ってしまう。

 

気を取り直して、「Masquerade」。幕張も過激だったけれど、それが一層強くなっている。奔放さも加速。初めから終わりまで、張り付いた仮面を取り払おうとする仕草が何度も繰り返される。剥がそうとしても剥がせない、その苦しみ。羽生結弦選手のスケーターとしてのヒストリーと、思わず重ねてしまう。

内面の想いを吐露させる仕草、まるで狂ったかのよう。この激しさと速さ!「突き刺さる」のところでの苦悩のさま、そのあとの「マスカレイド!」での身体全体を叩きつけるようなさま。自身への怒りなのか、他者へのものなのか。

スピンの一つ一つが、仮面を引き剥がそうとする回転に見える。滑走も滑らかでいるようで、ずっしりと質量がある。ピエロを演じる役者のように、もがき、苦しむ結弦さん。物語はいよいよクライマクスの最終場面へ。

華麗なスピン。でも見惚れることはできない。苦悩する羽生結弦選手にしっかりと張り付いた見る側の視線は、やはり彼の苦悩を共有してしまう。ともにその時間を生きてしまう。だから、手袋を脱いで、リンクにぶつけた(仮面を剥がした)最後には、ホッとするのだ。