「春よ、来い」をピアノ演奏に合わせて舞われた羽生結弦選手。「天女の舞」という表現をしておられた方が何人もおられましたが、それにあやかり「羽衣の舞」といわせていただきます。歌詞には沈丁花がでてきますが、私には6月に咲く「羽衣の舞」という美しい花の方がふさわしいような気がします。
彼の演技を見ていると、どうしても能の「羽衣」がダブります。まさに羽衣の舞。能の「羽衣」の最終部、天女が羽衣をなびかせて天高く帰って行く姿を地謡が謡うキリ部です。現代語に訳しています。その下に原文を。
さまざまな舞を披露した月のように美しい羽衣の天女、その姿は十五夜の満月、真如の月が闇を照らすかのよう。国土が平和であるように、七宝の宝を降らし、私たちに与えてくれた。そして羽衣を浦風になびかせながら、三保の松原、浮島が原、さらには愛鷹山や富士の高嶺を越えて天高く昇って行き、やがて霞に紛れて見えなくなってしまった。
東遊の数々に。その名も月の色人は。三五夜中の空に又。満月真如の影となり。御願円満国土成就。七宝充満の宝を降らし。国土にこれを。ほどこし給ふさるほどに。時移つて。天の羽衣。浦風にたなびきたなびく。三保の松原、浮島が雲の。愛鷹山や富士の高嶺。かすかになりて。天つ御空の。霞にまぎれて。失せにけり。
「月に映る影のような、人に真理を示す天女。天から尊い宝を私たちに降らせてくれる」なんていうのは、まさに羽生結弦さんですよね。演技のみならず、その存在そのものが。神秘性、宗教性をまとっているのも、天女のよう。曲には序破急の流れが生きていました。ピアノが美しい。
<序>
その長いたおやかな腕を交互に高く挙げると、袖のひらひらが揺れる。まるでまとった羽衣の袖をはためかせる天女のよう。滑らかで優雅。ここからすでに羽生ワールド。 はためく袖がMesmerizing!羽衣の袖です。
<破>
二つ目の「春よー」からゆったりとした流れのテンポが変わります。4回転トーループ。それにしても跳ぶ前の休止なしです。なんとも滑らか!ふたたび少し緩やかになって、ハイドロブレーディング。美しい。
<急>
ディレードアクセル
連続スピン、そして終わる。
そこには天女が去った後の闇。そしてふたたび光が。これ以上ないほどドラマチックです。羽衣は天に帰り、羽生結弦さんは地に還ってきてくれました。
彼はトークショーで「『春よ、来い』は人生観を表してるプロ。自分の中で思いを込めて滑ってるが伝えたいとは思っていなくて、見ている人が何か少しでも感じてくれれば」とおっしゃったとか。これはまさに能の演者。全身全霊をかけて演技しているけれど、何かを伝えようというのではない。ひたすら内面に沈潜し、それを形として出すのが演技。演者の存在そのものとしてそこにある。それ以上でもそれ以下でもない。見る者もそれを受け止めるだけ。内面に閉じ込められた想いがいかに強い、重いものかを感じます。羽生結弦さんの演技に人が感動するのは、そこに尽きると思います。