「『天皇』が日本人にとっていかなる意味を持つのか、そしてそのあり方を保証してきた事象の一つが和歌であった」と私は以前のブログ記事に書いた。一昨年、鈴木健一著の『天皇と和歌 国見と儀礼の1500年』という刺激的な研究書に触発されてのものだった。
そもそも「天皇」システムと和歌との強靭な関係を知ったのは、アメリカの大学院での課題として読んだ深沢七郎著『風流夢譚』に出会ったから。衝撃的な出会いだった。『風流夢譚』についても2011年6月のブログ記事にしている。
あの『万葉集』冒頭の雄略天皇の「籠もよ み籠持ち ふくしもよ」で始まる歌は、まさに天皇(すめらぎ)としての日本(大和の国)国見の歌である。
だから天皇が詠まれる歌は、必ずやその視点が入っているはずである。それは天皇としての制度が変わった現代においても当てはまるはず。事実、歴代の天皇が詠まれる歌はその視点は常にあった。とくに一年の始まりを寿ぐ「歌会始」の儀では、天皇陛下を含む皇族方もそれに倣っていると考えられる。そこが一般公募で選ばれた人たちの歌と超えがたい一線を画すところだろう。
本年の天皇陛下御製歌はさすがである。国見の歌のお手本だろう。
天皇陛下
世界との往(い)き来難(がた)かる世はつづき窓開く日を偏(ひとへ)に願ふ
天皇として、日本としてのあり方を憂い、ご自分の祈りが届かないことをもどかしく思っておられるのではないか。拡大解釈を許していただければ、今現在皇室(の一部)や宮内庁が、日本国民にも「窓を開」いていない状況をも憂いておられるように感じた。
本年は敬宮さまのお歌が初披露されるということで、注目が集まったのだが、敬宮さまのお歌は想像以上にすばらしいものだった。視点も日本から世界へと広く遠く拓けたものであり、敬宮さまの期待感に加えて覚悟が感じられた。
敬宮愛子内親王殿下
英国の 学び舎(や)に立つ 時迎へ 開かれそむる 世界への窓
「開かれ初(そ)むる 世界への窓」とは「開かれ始めた世界への窓」の意であり、ここに天皇家の長女として、国際的場での活動を担うという期待と覚悟が窺える。
歌(和歌・俳句)は、私の勝手な解釈では「日常が非日常に変わる一瞬、その一瞬を捉えたもの」ということに尽きると思う。その際、「一瞬」とは、「過去の時間を孕みつつ、かつ未来の「開き(拓き)」を予測するもの」であり、天皇と皇室の方々にはその一瞬に天皇家の過去(歴史)とこれからのあり方を示唆する内容になっているのではないだろうか。その軸になっているのは天皇と民との一体感である。日本人が一人の民として天皇に求めるのは、まさにその一体感だろう。雄略天皇の国見まさにそれを表したものだといえる。
敬宮さまの歌にもこの「一瞬」がある。迎えた「時」とはご自分が皇女としての天皇家の歴史を背負って、これまた長い歴史を背負った英国の学び舎との交差点に立つ一瞬である。勉学という日常が歴史の交差点という非日常に変わる瞬間。その瞬間、目の前に拓けるのは今までは意識できなかった突き抜けた世界だろう。「時迎へ」には期待が込められていると同時に、どこか「時」(の重み)への畏敬の念が感じられる。作者の優れて高い感性が伝わってくる歌である。
そういう敬宮さまを畏敬するお歌を作られたのは寛仁親王妃信子殿下である。
寛仁親王妃信子殿下
成人を 姫宮むかへ 通学に かよふ車窓の 姿まぶしむ
「まぶしむ(眩しむ)」とは『短歌用語辞典』(飯塚書店、1993)によると現代の短歌でよく使われる「擬古語」であり、「まぶしく思う・気恥ずかしく感じる・まばゆいほど美しいと思う」の意。信子さまの愛子さまへの愛が感じられ、ほのぼのとした気分になる。素直なお歌である。
そして、ここにも「一瞬」が、過去と未来が交錯する一瞬がある。敬宮さまの存在が表す隠れた皇室歴史とこれからのあらまほしき皇室の未来である。「むかへ」には、信子さまの敬宮さま立太子の期待が込められているように感じる。
高円宮妃久子殿下のお歌も現在の皇室を詠まれている節がある。それは信子さまのものと違いもっと過激であり、一種の絶望ですらあるように思う。
高円宮妃久子殿下
車窓より 眺むる能登の広き海 よせくる波は 雪降らしめつ
「よせくる波は雪降らしめつ」とは「よせてくる波が雪を降らせてしまった」の意ではあるけれど、読み込めば違った風景が見えてくる。一見、能登の過酷なまでに暗い情景を歌っている。ここでの能登の海とは皇室の荒んだ情景と重なる。その荒みはまだまだ続くであろうことが「よせくる波は 雪降らしめつ」で表現されているのではないか。次々押し寄せる波、それが雪をもふらせてしまった。それが今後どれだけ続くのかという不安と絶望。読み込み過ぎだろうか?ここにも皇室の過去時間とこれからの未来時間とが能登の広い海に交錯して現れている一瞬がある。
そのような「絶望」を呼び寄せた当人は相変わらず能天気な歌を詠んでいる。あえてあげない。その次女も能天気度は父親と同程度。皇族が詠む和歌の何たるかをまったく理解していない。彼女の詠んだ「心がはづむ」の句、個人に始まり個人で完結する。あくまでも「私」の領域。情けない。