日本では聞いたこともなかった歴史上の書物、事象を、アメリカの大学院で知った。密教の一派の「立川流」についてはアメリカの「日本文化における宗教」クラスで初めて聞いた。また『とはずがたり』の著者、女房二条への関心が異常なくらい高いのにも驚いた。研究もなされている。なにしろイギリスの劇作家、キャリル・チャーチルの作品、『トップ・ガールズ』にも出てくるくらいである。その他には天野信景の『塩尻』も日本古典のクラスで初めて知った。
中でも深沢七郎 著『風流夢譚』(英語タイトル;The Story of a Dream of Courtly Elegance)は衝撃だった。日本ではタブーになっていたのだから、耳に入ってこなかったのは当然だった。パブリッシュはされていないけど、サイトはあり、全文掲載されている。おそらく日本の大学の授業では扱っているところとはないのではないか。John Treatの"Beheaded Emperors and the Absent Figure in Contemporary Japanese" という優れた論考もある。Treat は最近ではアニメ論でも鋭い考察をしている研究者でワシントン大の教授だったけど、今はイェール大に移ったようである。初めて学会で彼をみたとき学者には似合わない(?)男前だったので、隣りにいた学友(もちろん女性)と二人で思わず声をあげてしまった。指導教授のおともだちだったので、羨ましかったものである(まったく、何を考えてんだか)。
Treat 論文のタイトルからもあきらかなように、スゴイ内容である。これを掲載した『中央公論』の社長宅に右翼少年が押しかけ、社長は不在だったので難を免れたが、妻が重傷を負い、家政婦が殺された。「嶋中事件」とよばれているらしい。
Treat 論では(ずいぶん前なのでうろ覚えなのだが)たしか宮中の歌会始との関係で『風流夢譚』を論じていた。歌を詠むという行為が日本特有の権力行使のひとつであるというような内容だった(気がする)。『風流夢譚』中では天皇家の人たちの歌が非常に重要な意味を持たせられている。ところが同時にまったくのナンセンスとして示されている。つまり『不思議の国のアリス』にでてくる歌の「ナンセンス」である。本来「ナンセンス文学」として読むべきものなのだが、そうとらない人もいたということだろう。
しかしである、そう受けとらなかった人もまんざら間違っていたわけでもないかもしれない。「立川流」にしても二条にしても、共通項がある。それは性的なオルギー、放逸への淫靡な共感といったものが底流に流れていることである。そして、それと同質のものがこの『風流夢譚』にもあって、それが天皇と結びつけられている点に拒絶反応が生まれた可能性がある。うがちすぎだろうか。
この事件のあと深沢は長期間文筆活動ができなくなったのだが、三島由紀夫はあくまでも深沢のサポートをしたという。三島らしい。Treat 論のタイトルの"Beheaded" は当然三島を意識している。そしてもちろん、"Absent" というのはあの有名なロラン・バルトの『表象の帝国』を下敷きにしてもいる。バルトの日本論の中核にあるのは、意味の欠如した記号が満ちあふれた意味「不在」(absent) の日本であり、それを表象するのが皇居という空虚な空間だという論点だったのだから。