yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

忌憚ない秋篠宮批判が見られる小林忍氏著『昭和天皇 最後の侍従日記』(文芸春秋、2019年4月刊)

昭和49年から63年の間昭和天皇に侍従として仕え、その後平成12年の皇太后(香淳皇后)崩御まで皇太后職を務められた故小林忍氏の日記を、共同通信取材班がコメント、対談をつけてまとめたもの。巻末に付いていた小林忍氏の略歴が以下。

大正12(1923)年4月28日、静岡県吉原市(現富士市)出身。旧制姫路高校時代の太平洋戦争中召集。終戦後、京都大学法学部政治学科で学び、同大大学院を経て昭和24(1949)年4月に人事院入省。昭和49年4月に宮内庁に入り、昭和天皇侍従になった。昭和天皇の死去後、一時明仁天皇の侍従を勤めたあと、香淳皇后の側近として仕え、香淳皇后死去翌年の平成13(2001)年6月まで皇太后宮職御用掛を務めた、平成18年7月3日に83歳で病死した。

侍従時代の小林氏の写真がネットにあがっていたので、二葉お借りする。

昭和天皇、その後ろに入江侍従長、そして小林侍従。

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もう少し新しいと思われる写真が以下。左端が小林侍従である。

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昭和天皇のお人柄、皇后陛下(香淳皇后)との仲の良さ、皇族方との付き合い等が手に取るようにわかる極めて貴重な資料である。興味深く読んだ。昭和天皇と皇后の普段の生活ぶり、折々に述べられる本音の忌憚なさが、驚くほど「赤裸々に」綴られている。特に天皇の「戦争責任論」の受け止め方がリアルに描かれている。それら天皇の想いに真摯に向き合った小林侍従の昭和天皇への敬愛の念に、思わずほろっとする箇所が多々ある。行間からは、小林氏があえて書かなかったことが垣間見える。平成になって、批判がそれである。総じて、小林氏の昭和天皇崩御後、あっさりと旧式を崩してしまった皇室(宮内庁)の「新体制」批判として読んだ。独断と偏見でその一覧をアップする。

 

秋篠宮(礼宮)批判

昭和天皇の喪中、礼宮婚約ーその納采の儀(1月12日実施)における赤坂の浅慮

礼宮が仕切った納采の儀の招待者名簿の中に、皇太后職が入っていなかった。これは皇太后を軽んじられている赤坂((前天皇・皇后)の采配による(?)。小林氏、「これまでもこれからも、礼宮御夫妻は皇太后職にも吹上でお世話になることを考えないのか。せめて女官長を代表として召すべきではないか」と、かなり立腹されておられる。

 

秋篠宮結婚式(平成2年6月29日)での四方へのお写真への批判

秋篠宮のだらしない風態

小林氏の記述は以下である。

正式の記念写真としては問題がある。秋篠宮殿下が両手を前に組んでいるのは論外。最高の正装をして改まった写真であるべきところ、こんな姿勢では良識を疑われるというべきである。従来から殿下は両手を組むくせがおありのようで、そういう写真をよく見る。陛下の左手も甚だよくない。掌を大きく開いている。自然にのばすか、軽く握るかすべきだろう。これもくせらしく、竹の間における国賓との写真でも見かける。(略)折にふれ報道される写真であるだけに、特に日頃からキリッとしない動作の多い秋篠宮殿下にとっては大きなマイナスである。

当該写真が以下。小林侍従の指摘通り。

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紀子妃の「コンス」

もう一つ私が気になったのが紀子妃の「コンス」。紀子妃の腕の肘の張り方で、これは半島の「コンス」と呼ばれる女性の挨拶時の形らしい。小林侍従がこれに気づいておられたかどうかは定かではないけれど。

紀子妃の品のなさ

ただ、小林氏の出身は静岡県富士市。紀子妃の母親が静岡駅近くの朝鮮部落出身であったことを考えると、小林氏はご存知だったのでは?批判ではないけれど、皇太子殿下の結婚式のあった二週間後に、秋篠宮邸前を通ったときの紀子妃のあまりにも「くだけた」様子が次のように描かれている。

秋篠宮邸前を通ったが、門前の車庫前に同宮妃殿下がお子さんをつれ運転手とお話しておられたので、おじぎをした。まったく普段着のスラックスにTシャツという姿で、最初は妃殿下とは気づかないほどだった。 

これを「雅子さまとのあまりにも違いに唖然とした」と解釈するのは、しすぎでしょうか?

現天皇陛下と皇后陛下の結婚式のお写真

参考までに現天皇陛下と皇后陛下の結婚式のお写真を。

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上の写真とは対照的な現天皇陛下と皇后陛下の結婚式のお写真。当時の東宮でおられた現天皇陛下の表情、佇まいも上の写真のどなたかとは比べるべくもない、正統派の凛々しさである。また、上の写真の妃と比べると、雅子さまの方が、お美しさはもちろん、品も凛とした佇まいも比較にならないほど、優れておられる。腕も「コンス」ではなく、脇を締めておられる。 

小林侍従は当時の皇太子殿下と雅子さま、それに前天皇皇后夫妻の写真をご覧になって、きっと「さすが!」と思われたのでは。

雅子さまのご両親への同情

雅子さまのキャリアを惜しむ

平成5年1月6日「皇太子妃決まる」の報道を受けての感慨を述べておられる。以下。

数年前に候補者の一人として話題を集めながら、御本人が断ったということで立ち消えになっていた小和田雅子さん。外交官としてバリバリの人。相当な決断で別世界に入ることをきめたものと思われる。外交官として身を立てるべく活躍してきたのだから、断念するにはそれなりの重大な決心がなければならないが、父娘共に外交官僚であり、父は次官の立場でもある。外交官の先輩から膝詰めで決断をせまられれば到底断りきれないだろう。あたら英才を籠の鳥にしてしまうのはいかにも残念だが、皇太子の幸せのためには止むをえないのか。

小和田家ご両親の苦悩に同情

以下のようになっている。

平成1月19日 ご結婚が会議で決定された。御両人(浩宮殿下、雅子さま)の記者会見約20分。仲々几帳面に長々と質問に答えていたのは流石だが、苦悩の末の決断だったことを示すものだと思う。別にあった御両親の記者会見で、父親の「色々ありましたが・・・」という苦渋に満ちた、よどみ勝ちなあいさつに、娘と小和田家のこれからの苦労や負担を考えると気が重いということがよく表われていた。

さらに読み込むと、美智子前皇后批判が随所に。

美智子前皇后批判

平成流を押し通す

何にでも天皇と揃って出ようとすることへの批判が散見される。

気をつけて読むと、「平成流」と称してこの二人が、昭和天皇在位中のしきたり(これは代々続いていた宮中のしきたりでもあるが)を破壊しているのが、かなり詳しく描かれていて、衝撃的である。美智子前皇后(当時の皇太子妃)いかに皇室のしきたりを撹乱し、自分流にやりかえてしまったのかが判る。もちろん小林氏は批判的。しかし、それを感情的に出されない。だから吐露されるときはかなりの危機意識を持っておられる場合だった。

礼宮、紀宮のしつけができていない

また礼宮、紀宮のしつけができていないことを、さらっと書いておられる。特に紀宮が、侍従たちへの心遣いがまるでないことが書かれていて、あの二人の未だ直らない風態と態度に、さもありなんと合点した。

病気を理由に昭和天皇への参内をしばしばキャンセル

昭和天皇在位中も、前皇后(当時の皇太子妃)が病気を理由に天皇へのあいさつ、参内をキャンセルしていたことが書かれている。昭和天皇と香淳皇后の仲むつまじさ、お二人の侍従たちへの心遣いも事細かく描かれていて、それがそのあとの天皇夫妻への批判になっているように感じられるのは、私の深読みだろうか?

前天皇夫妻の侍従への心遣いのなさ

皇后陛下誕生日祝賀行事でのことである。「昭和天皇の時と異なり、両陛下(明仁・美智子)でお受けになるものが多い。我々に昼食の御馳走もない」と嘆いておられる小林氏。

滅多に感情的になられない小林氏、その方が、まるで筆が滑ったかのように心情を吐露されるところに、観察対象者の実像が浮かび上がっているように感じる。昭和天皇が敬愛に値される方だったのに対し、平成の方々はそうでないと読めてしまう。美智子前皇后の香淳皇后への「仕打ち」は伏せられたままではあるけれど、色々とつなぎ合わせると、違った風景が見えてくるような気がする。