yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

入江侍従(次)長を困惑・辟易させた美智子(皇太子妃)−『入江相政日記』第3巻と第4巻より

 

『入江相政日記』第3巻(昭和26年〜昭和40年)と第4巻(昭和41年〜昭和47年)に目を通した。この日記は皇室史に新しい展望を開いたといえるかもしれない。実に興味深い内容だった。

『入江相政日記』の著者、入江相政とは

入江相政氏(1905-1985)は昭和34年10月昭和60年9月の長きに渡り昭和天皇の侍従(長)を務めた。父の為守子爵は歌道の冷泉家出身。また母は柳原前光伯爵長女で、大正天皇の生母・柳原愛子の姪。昭和天皇とは「はとこ」の続柄になる。

浜尾実氏が引用した『入江相政日記』の記載

浜尾著書に見られる美智子皇太子妃への同情

入江氏の日記を「確認」するきっかけを作ってくれたのが、浜尾実氏の著書を読んだからである。浜尾氏は徳仁親王1歳の昭和36年5月から徳仁親王初等科5年生を修了の昭和46年4月まで徳仁親王の教育係として「帝王教育」を施された方であることは夙に有名である。まさに「育ての親」とでもいうべき存在だった。近隣の図書館での検索結果ではその著書はかなりの数にのぼり、ほとんどが「教育関係」のものだったが、中には教育係侍従だった当時の回顧録のようなものもあった。

その中の二冊、『浩宮さま』(PHP出版、1992)と『皇后美智子さま』(小学館、1996)を借り出した。どちらの著書も美智子前に対して同情的な記載が多かった。とりわけ当時の皇后や皇后に近い皇族からのいじめがあったと断定していて、かなり違和感を感じた。美智子前の実態を知らなかった数年前までなら、そのまま信じたかもしれないけれど、雅子さまいじめが実際に時系列で暴かれた現在は、また、キコと秋篠宮との結婚を許し、そればかりかこの一家をここまでつけあがらせたのが美智子前だと知ってしまった今となっては、浜尾氏のpoint of viewはかなり一方的だったと思われる。

もちろん教育係侍従といえども、実際には皇太子一家とべったり一緒に暮らしていたわけではないので、その断片を垣間ご覧なっての見聞だっただろう。彼が話を聞いたという東宮付きの侍従にしても、意見の統一はなかったはず。加えて、浜尾侍従のような高徳な方には、当時皇太子妃(東宮妃)だった美智子前の偏った視点やそこから生じる凄まじい嫉妬、怒り、怨念のようなものは、理解を超えたものだったのかもしれない。

また浜尾氏は敬虔なカトリック教徒ということもあり、美智子前を同じカトリック教徒として同情的に見ていたのではないだろうか。それは黒を白へと逆転させるほどのキリスト教徒同胞への「信頼」だったかもしれない。だから迫害・弾圧を受けてより団結を強めた長崎のキリスト教徒たちのように、無条件に美智子前をサポートしたのではないか。彼女の悪は見て見ぬ振りというか、「博愛のクリスチャン精神」からはあるはずもないもの」と断定したのではないだろうか。

現在私たちが立ち会っている実際

ネットコミュニティに生息する私たちが見ているのは、今、現在のこの美智子前と秋篠宮一家の堕落ぶりである。それ以上の「返答」はないだろう。この結果が全てである。浜尾氏のご覧なっていたものとは真逆の事実が目の前に展開している。ネットに流通するものはそれこそ千差万別ではあるけれど、一方的に偏ったものは淘汰されてゆく。だから、今私たちが目撃しているのが「美智子前の真実」ということになる。

『入江相政日記』に皇太子妃はどう描かれているか?

浜尾氏が「いじめ」として記載されているものに『入江侍従日記』を引用したものがいくつかあったが、その原典をあげてみる。

美智子のキリスト教がらみの疑惑

1.昭和36年8月11日と昭和36年8月16日

最近の奥のをかしな空気、東宮様と妃殿下に対すること、両妃殿下のこと、義宮さまのこと。全く弱ることばかり。くだらなさに腹が立つがそんなこと話し合ふ。」(昭和36年8月11日)

「那須で東宮同妃から両陛下に色々この間からのことを十時すぎまで率直にお申し上げになったとの事。お上はよく分ったと仰せになったが皇后さまは終始一言もお発しにならなかったとの事。」(昭和36年8月16日)

これは浜尾氏も言及されているように、キリスト教がらみのこと。義宮(現常陸宮)様がキリスト教に興味を持たれたのだが、それが美智子の影響だと噂されていた。美智子と同じカトリック教徒だった浜尾氏は否定されているけれど、噂は事実だったのでは。美智子前は皇居地下に礼拝堂を造ったといわれている。昭和35年に皇子誕生で、強気になった美智子が我を通すようになり、昭和天皇、皇后にその分をわきまえず憚らず楯突いた?この人の我の強さが出ている一幕。

美智子のヒステリーにうんざり、辟易?

2.昭和37年10月20日

「(皇太子)妃殿下の御誕辰。妃殿下に国民の九割九分迄は絶対の支持をしてゐること申し上げる。

入江氏からすると、こうでも言っておかないと、またもや天皇と皇后に抗議する可能性があったからだろう。非常に強気で、あくまでも我を通そうとする皇太子妃にうんざりした上での発言だったと思われる。このころの皇太子妃について、浜尾氏は非常に「落ち込みうつ状態だった」と述べているが、二人の皇太子妃評価の落差が興味深い。

歌の家に生まれ、人の心の機微に敏かった入江相政氏、歌舞伎、能にも通暁しておられた、争い時の人の心理の動きを理解しておられた。ゴタゴタを沈静化するにはどうすればいいか、考えた上での進言だった?

3.昭和38年3月22日

東宮妃は三時ごろ宮内庁病院に入院。すぐオペラチオンとの事。半蔵門からタクシーで歌舞伎座。修善寺の途中、清元の松風、村雨、あと真山青果の勝小吉、麟太郎、玄朴の芝居。

皇太子妃が胞状奇胎で手術したとの報告。なんとそのすぐ後に入江氏、歌舞伎見物したらしい。この頃入江氏は美智子に同情的ではなく、むしろ反感を持っていたのでは?そう推察できる一節ではある。

文中の「修善寺」とは歌舞伎『修禅寺物語』のこと。また真山青果云々は真山青果作『天保遊侠録』を指す。勝海舟(麟太郎)の父・勝小吉が主人公。伊東玄朴は登場人物。

『歌舞伎データベース』で確認したところ、この日の『修禅寺物語』は、夜叉王を二代目猿之助、桂を六代目歌右衛門、楓を三代目市川団子が演じた。『天保遊侠録』では十七代目勘三郎が小吉、七代目友右衛門がお芳、守田勘弥が玄朴、米吉が麟太郎、そして初代三津五郎が石黒という配役だった。入江氏の日記中、そこかしこ言及が見られるところから、入江氏は勘三郎とは親交があり、また三津五郎も贔屓にしていたようである。まあ、入江氏は歌舞伎通で、観劇記事が結構ある。評もたまにあって面白い。かなりの見巧者とお見受けする。そりやー、くだらないヒステリー女に付き合うより、楽しいお芝居を見たいだろう。納得。

入江氏は和歌の家、冷泉家の出身、そして柳原白蓮の甥でもあった。ご本人も和歌の名手であり、優れた随筆家でもあったんですよね。そういう文人から見ると美智子さんのワガママはさぞ下世話に写ったことでしょうね。入江氏に同情。

東宮妃への怒り

4.昭和38年3月23日

その翌日の日記での東宮妃への言及である。

東宮妃の云はれたことくりかへし考えるが誠に不愉快である。それが更に仮にさう云はれたとしてもその事が予の耳に届くといふやうなこと昔の側近にはあり得ないことである。

皇室のしきたりを蹂躙してゆく皇太子妃への怒りが強く出たところである。これ以降、入江氏は彼女への同情を一切しなくなってゆく。

東宮妃への疑惑?

5.昭和40年3月19日

山田(康彦)君(昭和40年3月31日まで東宮侍従長)と面談、東宮さまのところも困ったものである。

ここで「困ったもの」というのは美智子東宮妃を指していると思われる?2年前の「不愉快なこと」つまりキリスト教がらみのことか、他のことか?

ちょうどこの頃、東宮妃は礼宮を懐妊している(出産は同年11月30日)。この頃から東宮妃の「奔放さ」が問題としてあがっていた?そう深読みしてしまう。いずれにしても、東宮妃が2年前からずっと並々ならない不満を天皇、皇后陛下やその側近に抱いていたことは事実である。強い恨みから、この人が道を踏み外したのではと深読みしてしまう。まさか、東宮妃周辺では侍従たちからこの疑惑が漏れ出ていた

その疑惑を漏れ聞かれた昭和天皇は、礼宮のお印を「栂」などという不吉なものにされた?どうしてもそう読み取れてしまう。入江氏は皇室にとってとてつもない「悪」が蔓延する兆候を感じ取っていた?

徳仁親王を「可愛い」と褒めていた入江氏、礼宮については言及は全くない。皇室にあってはならないことがすでに起こり始めていた。入江氏は漠然とした不安を感じていたのかもしれないなんて、思ってしまう。