前の記事に入江侍従長がいかに東宮妃にうんざりしていたかを、昭和40年まで日記に辿った。婚約の頃には彼女を褒めていたことを考えると、この落差はどこから来たのか。入江氏ではなく、東宮妃が変わったからに違いない。
東宮妃の日ごとに募る不満とその表明に、入江氏はかなり嫌気がさしておられたと推察する。その好例を昭和42年11月の日記(見開きページ)で確認したい。
11月13日〜17日
東宮御所に出向いた入江氏を待っていたのは、東宮妃の「(当時の)皇后様は私にどこか気に入らないところがあるのですか。私が平民であるということ以外に」という詰問だった。これは入江氏へのものというより、皇后陛下に伝えるようにということでもあった?
すでにこの人に端を発する「聖書事件」に悩まされ、加えてこの人の皇族らしからぬ我の強さに、入江氏がかなりうんざり気味だったのが文面から伝わってくる。この4日後に皇后に拝謁したおり、入江侍従次長はこれを皇后に伝えたのか。否だろう。
11月18日、21日
生方たつゑ氏と会ったり、菊池寛賞発表パーティに出かけ、吉屋信子氏などと交流が会ったことがわかる。文人との広い人脈がわかる。
「君子」とはもちろん裕仁天皇のこと。入江氏が天皇家の縁談などごく内輪のことだけではなく、皇室全般の人事も手配していたこともわかる。
11月27日
午後からはおそらく日本古典芸能の会?といったところに出かけ、能楽、箏曲、長唄の第一人者の演奏を聴いておられる。
近藤乾三は伝説のシテ方能楽師(宝生流)。DVDで仕舞を見ただけではあるけれど、素晴らしかった。確か三島も惚れ込んでいた。幸祥光は小鼓方幸流の名手。近藤の謡に幸が小鼓を付けた一調一声での「小督」だったのだろう。聴いてみたかった。米川文子の箏、小三郎の長唄の「明治松竹梅」?にも感心している。
さらには、宝塚劇場での文春文士劇を見てもいる。これ、とてもおかしい。「勧進帳」の配役を知りたいですね。
ことほど左様に、入江氏の文化芸術の守備範囲が実に広いことがわかる日記記述ではある。彼にとっては世俗的な不満に耳を傾けるよりも、こちらの方がずっと楽しいに違いなかったのは、文面から伝わってくる。「嗚呼!」という嘆きが聞こえるようでもある。同情を禁じ得ない。