yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

美智子前と秋篠宮夫妻、そしてカワタツによる皇統簒奪計画の原点はどこにあるか?

 

美智子前の怨念を形成したのは何か?

今や女帝として皇室に君臨する美智子前の自身の子息である徳仁今上天皇陛下ご一家、とくに雅子さまに対する執拗な、異常なまでのいじめ、さらには秋篠宮に皇統を移そうとする計略、それらの原点は、美智子前の皇室、特に昭和天皇と香淳皇后へのマグマのような恨みにあるのではないだろうか。入江相政侍従長の日記の一部を読んだだけでも、美智子(当時の東宮妃)の屈折した心理が窺い知れたように思う。では、その怨念を形成したものはなんだったのか?

入江氏の日記でわかったのは、当時の宮内庁の天皇、皇后両陛下に近く接する侍従たちのほとんどが(旧)皇族、(元)華族で占められていたことである。当然ながらそこに新平民である美智子前が馴染むのは難しかったと想像される。

GHQの後押しを受けて順風満帆な船出?

しかし美智子本人、入内前にはそれをさほど「心配」していなかった節がある。広く喧伝された「テニスコートの恋」なんていうのはフィクションで、実際は仕組まれた入内だった。GHQと組んだ小泉信三が、天皇家に持ちかけた縁談だったというのが真相ではなかったか。天皇陛下も強くは逆らえなかったのが事実だったのではないだろうか?カトリック教徒だった小泉と同じくカトリック教徒だった正田家とがGHQのサポートを得て組んだ縁組といえるかもしれない。勝者アメリカの出先機関であるGHQの後押しがあり、そこにキリスト教という援軍があれば、敗者日本なんて、いうがまま!という流れの中で、美智子は皇室に入った。

彼女に抵抗する皇室への憤懣

しかし入ってみると、その傲慢の鼻はへしおられた。周りは使用人(侍従)に至るまでそのほとんどが(旧)皇族、(元)華族で占められていた。そして彼らは彼女の行状をことごとく修正しようとした。

一旦立ち止まって省みると、皇族方の、特に当時の皇后陛下をはじめとする皇族方の美智子入内への強い懸念と反発は非常に正しいものであったといえる。天皇制崩壊のタネを撒こうとした美智子への強い警戒感、嫌悪感は理屈を超えて本能レベルでのものだったと思う。

しかしこの「使命を帯びた」彼女はそれに甘んじない。彼女がやった(やろうとした)ことは、すべて旧来のしきたりを壊すこと。そして彼女の価値観に沿った規範(ルール)を皇室に導入すること。その一つが「なるちゃん憲法」だし、「東宮御所の私的キッチン」だった。なるちゃん憲法もキッチンもマスコミに売り込むアピール作戦のひとつで、当時の週刊誌はそれにまんまとひっかかったんですね。ご愁傷さま!でもこれは私たち自身にいうことですね(涙)。こういう新旧対立構図を創った場合、有利なのは「新」の方ですものね。入江侍従長が「国民の九割九分迄は絶対の支持をしてゐること申し上げる」と彼女に言ったのは、この人の戦略を知っていた(乗っかるふりをした)からでしょう。

昭和天皇皇后の忌避

しかし、天皇陛下、皇后陛下はそれには乗られなかった。むしろ忌避された。あまりにも下世話、俗の極みだったから。皇室はハリウッドではない。公の目に映画スターのように晒されるべきではない!

同志・カワタツ(川島辰彦)と組んだ天皇家への復讐劇

戦略が挫折、思うようにならない皇室への憤懣は貯まる一方。それが復讐という形となったのが現在の状況であるように思う。その復讐劇にはカッコウの助演者が登場した。それがキコの父、川島辰彦だろう。この二人の目指す方向は同じである。解同・総連を代表する水平思想の推進者、カワタツもその目的は同じ。皇統簒奪。皇室への仕返しと現天皇家の転覆。

怨念の源は出自にあり 

すべての源は美智子前の怨念に端を発している。それは彼女の出自に深く関わっている。以下の二つである。

  • カトリック教徒(クリスチャン)であること
  • 新平民であること

カトリック教徒であることについては前の記事で論じた。問題は「新平民」の方である。ひとつの「証言」をあげておく。

「新平民」証言—昭和34年の第31回国会答弁より

第31回国会(昭和34年2月6日開催)

061・菊池義郎議員の質問

菊池委員 

宮内庁長官にお尋ねいたしますが、この皇太子殿下の御成婚につきまして諸説ふんぷんとして、国民はいろいろの誤解を抱いておるのでございます。私は、皇太子が平民の娘をそのきさきとして選ばれたことを非常に喜んでおります。平民であろうが新平民であろうが、粉屋の娘であろうが何であろうが差しつかえないと私は考えておるのであります。こういう点において、私は欣快にたえないと考えておりますが、その婚約の過程においていろいろの謀略策略が行われておるということが、最近の週刊雑誌やその他の刷りものにおいて世間に流布され、これによって国民が非常な疑惑を抱いて、国民の頭は割り切れないような感じになっておるのであります。この際それが事実であるかいなかを長官から明確に発表されて、そうして流説の真偽を明らかにして下さるならば、国民は晴れやかな気持になり得ると思うのであります。私はもう時間がございませんので、端的にせんじ詰めて要点々々だけ申し上げますから、長官も簡単にお答えを願いたい。
 まず第一にお伺いしたいのは、この婚約の前に、美智子嬢は二十五人の見合いをしておられた。そして最後に波多野という青年と婚約、これを破棄して皇太子の方に振りかえたというようなことが流布されております。週刊雑誌に出ておりますが、これは事実でありましょうかどうか。

 

この菊池委員の質問から、美智子前が「新平民」=被差別部落の出身であることが当時の議員たちの間では共通の認識であったことがわかる。加えて、結婚前の美智子嬢の行状がかなりあからさまに暴露されている。

皇族の方々の怒りとそれに対する美智子の仕返し

これを知った皇族の方々が平穏な気持ちでおられたであろうか。否である。もし当人が謙虚な人柄で、皇室に馴染もうと心がけたのならともかく、実際はマスコミにまるでハリウッドスターのように自ら露出、神聖であるべき皇室をキャバレー並みに堕としてしまった。

生粋の皇族だった香淳皇后には我慢の限界だったに違いない。それを態度で示されたのだろうが、美智子はそれに甘んじるタマではない。入江侍従長に向かって「私が平民である以外、何が不満なの?」と抗議の狼煙をあげている。この頃には夫の東宮は、妻の傀儡に成り果てていた?情けない。

今も続く女帝の皇室への復讐

カワタツと組む前から美智子前の復讐劇は始まっていた。その端緒を切ったのは秋篠宮の誕生だった?当ブログにも載せたけれど、この人は天皇家の顔ではない。なんと美智子の義弟の安西孝之氏に瓜二つである。DNA鑑定を強く希望する。女帝の思うがままに皇室を牛耳られ、挙句の果てに皇統ではない男やその子を天皇に祭り上げるなんてことは、絶対にあってはならない。

なんども当ブログにあげてはいるのだけれど、再度秋篠宮と美智子妹の夫君の安西孝之氏との比較写真、さらには安西氏の母方祖父である森矗昶(もり・のぶてる)氏と眞子とのあまりにも瓜二つの比較写真をアップさせていただく。

秋篠宮と安西孝之氏

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眞子と森矗昶氏

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昭和天皇は秋篠宮(礼宮)の誕生時から、この子がご自身の孫ではないという強い疑いを抱いておられたのだろう。それが礼宮の「お印」を「栂」などという本来皇孫にはありえない禍々しいものに決められた所以だったのだろうと推測する。

「新平民」参考資料

「新平民」参考資料参考資料として、Wikiの「上原善広」の項に掲載されているものを引用させていただく。上原善広氏はその記載にもあるように、ご自身が被差別部落出身で、部落問題を中心に執筆活動を行なっておられる。彼がかっては裏ジャーナリズムの急先鋒だった『噂の真相』2003年3月号に寄稿した文章である。Wikiに掲載されているものをそのまま引用する。

雑誌『噂の眞相』2004年3月号に『「噂真」最後のタブー「部落出身芸能人」』というルポを寄稿。芸能界やスポーツ界などで活躍する部落出身者をイニシャルで紹介した。この記事では、「ある部落出身者が皇族に嫁いでいる」「もちろん未指定地区になっている。ここの出身者が皇族に嫁いだということで、地区指定を見送られたのだ。」「問題は、皇族ですら、部落民を身内として受け入れているという事実があるということだ。だからこの点に関しては、意外に皇族の方が進歩的といえるのかもしれない。この結婚に関しては、当の皇族本人が強く希望したため、宮内庁をはじめとする周囲も押し切られたとされている。まさに快挙といえる話ではないか。」と記している。

参考資料として「DAM DAM DAM」さんのサイト(October 30, 2013)を引用させていただく。非常に首肯できるし、興味深い。ありがとうございます。

 

ameblo.jp

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