yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

錣太夫と咲太夫が光っていた「寺子屋の段」in「初春文楽公演」@国立文楽劇場1月19日

チラシ裏の配役表を再度アップしておく。

f:id:yoshiepen:20211110092815j:plain

『菅原伝授手習鑑』の「寺入りの段」と「寺子屋の段」二段のみが上演された。個人的には「寺子屋」は好きではない。我が子を主のために差し出すというのに拒否反応が起きてしまう。同様に『先代萩』の「御殿の場」も好きではない。我が子が目の前で殺されるのを堪えて見ているという政岡に同情できないから。主命のために我が子も、自身の命も差し出すというのは、現代人の理解を超えているように思う。歌舞伎座で見るときはたまたま居合わせた外国人がどう反応するかを凝視してしまう。たいていの場合は私の心配は杞憂に終わり、皆さん大人しく見ている。不思議である。「これが日本的価値観として受け止められても困るなー」なんて心配するのは、例の「神風特攻隊」が、アメリカにいる時よく言挙げされた経験から。

まあ、人形劇になっていると凄惨さは幾分か減じる?のではあるけれど。とくにこの日の演者は素晴らしく、時代物ではなく世話物的な要素を際立たせていた。情に訴えることができるのは、太夫の力量が並外れて高いからであろう。

「寺入り」の芳穂太夫さんは落ち着いた、スッキリした語りで、知的な演奏をする清丈さんとはこの上ないコンビ。ワンヤワンヤの寺子屋の子供達の騒ぎをさらりと語られていた。戸浪の世話女房ぶり、千代の女房としての格の高さを演じ分けて、よかった。

いよいよ件の「寺子屋」。見る前から一種の覚悟を持って臨みます。錣太夫さんの野太い声が高くなったり低くなったりしながら源蔵の心理を表現。いつの間にか源蔵に同調している。とくに首検分に来た松王丸との丁々発止のやりとりでは完全に源蔵側になっている。本来なら小太郎の首を無残にも斬り落とした彼には同情できないはずなのに。女房の戸浪との声調を演じ分けるのが素晴らしく、人形が実際の人であるかのように見え始める。夫婦の悲劇に思い入れすらし始める。さらに、我が子の首を見聞する松王丸の苦渋をしっかりとその語りに忍ばせるのはさすがである。人生経験がこういう場合に出ると言ったのは山城少掾だった?彼は子供を失うという悲劇のあと、より一層語りに凄みが増したと言われている。

錣太夫は昨年にこの名を襲名するまでは津駒太夫さんだった。声調比較的綺麗目の若手の多い中で、一人際立ってのダミ声(失礼)。それでも語り始めるとなんとも言えない魅力が滲み出てくる。そう言えば住太夫さんも同じ系統だったなと思い返される。

三味線の藤蔵さんは、源太夫改め九代目綱太夫になった父(故人)と住太夫の妹さんとの間のお子さん。また祖父は山城少掾の三味線を務めた初代藤蔵。上手いはずである。悲劇を弾く三味線が凄絶である。

錣さんの後を続けたのは咲太夫さん。八代目竹本綱太夫の長男であり、私はてっきり彼が綱太夫を継ぐと思っていたので、驚いた。「一生咲太夫で行く」と決意表明されたとか。想像するに文楽を離れたコラボなどに積極的に挑戦されたいという想いがおありだったからだろう。2019年人間国宝に認定された。この後半部はとくに力を要する語りになる。人物間のギリギリのせめぎ合い、それを朗々と勢いよく語られたのは、いつもの咲太夫さん。各人の心理の襞をきちんと演じ分けておられた。

三味線の燕三さんはその語りに合わせてこれまた朗々と弾かれた。時折入る彼の「むむ!」という声に深みと凄みがあった。まだ先代燕三さんの下で燕二郎を名乗っておられたころから、いずれ清治さんと並ぶ三味線弾きになられるだろうと勝手に期待してきた方である。燕二郎の頃に新人賞を取られたのだけれど、「もっとも!」と思った記憶がある。なんばから日本橋へ通じる地下街でお見かけしたことがあったっけ。