『陰陽師』(夢枕獏著)自体はどちらかというとライト・ノベルにカテゴライズできるだろう。安倍晴明が都に現れる不可思議な現象、謎を解明して行くという体裁をとっている。また、「謎解き」という点では推理小説に分類できる。このシリーズが人気を博した所以である。その点で、池波正太郎の「仕掛人シリーズ」や「剣客商売シリーズ」に近い。文章はきわめて平易。読み易い。「通俗小説」といってもいいかも。
でも、「通俗」を凌駕しているんですよね。私が惹かれたのは、その自然描写だった。「謎解き」に注意が集中すると見逃してしまうかもしれないけど、彼の自然描写は散文のそれではなく詩のものである。どの章にも冒頭に自然描写が入る。それが得も言われず詩的で、こちらの視覚、聴覚、嗅覚、触覚に直に訴えかけてくる。清冽、時として官能的でさえある。
先日図書館から借り出したいくつかの『陰陽師』シリーズを昨日返却してしまったので、一等感激した描写を今引用できないのが残念。月光のもとに吹く風の描写だった。あれほど清冽な描写は初めて。こういう詩的な表現力が欲しいと、妬ましかった。現代でも江戸でもない、平安朝の「風雅」を形にして示すのは難しい。『陰陽師』は、ことばでもってそれを私たちの前に差し出してみせる。言霊を実感した瞬間でもあった。原典になっている『今昔物語集』に、その描写は多くを依拠しているのかもしれない。でもそこには現代の解釈が施されている。それのみか哲学的考察も施されている。まるで禅問答の趣を呈することもあるそれである。今手許にある第一巻から引用してみる。
上弦の月が、大きく中天から西に傾いていた。すでに嵐山の上あたりに、その月はかかっているはずであった。月の周辺に、ひとつふたつ、銀色の雲が浮いている。その雲が、夜の天を東へと流れてゆく。(略)中天に星が無数である。庭の草に夜露がおりて、それが闇の中で点々と光っている。天の星が、露のひとつずつに、そのまま宿っているようであった。庭に、夜の天がある。
この「庭に、夜の天がある」にやられた。参りました!こういう「風景」の中で晴明と博雅は酒を酌み交わす。無骨な博雅は、「在る」ということの不思議を問う晴明の禅問答のような哲学的言質に、当惑する。晴明は哲学が詩の形を借りて「ひと」となった、そんな陰陽師だったのかもしれない。それまでの、そしてそれ以降の陰陽師とは決定的に違っていたのかもしれない。少なくとも夢枕獏の『陰陽師』はそのように晴明を描いている。
自然と超自然との対比。月並みといえば月並みかもしれないけど、そこに霊的なもの、超自然を挿入し、それをもって二つのメディアとしたこと。超自然を表すのに「ことば」を用いたというのが、夢枕の革新性。大上段に振りかぶっていないところが、いいですね。
明日、京都の「晴明神社」に行ってこようかと考えている。人間のおぞましい一面を、ここしばらく嫌というほど見せつけられたので、その「お祓い」をした方がいいのかもしれない(笑)。