yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)』での呂勢大夫さんの語り 初春文楽公演1月22日昼の部

「座摩社の段/野崎村の段」と二段だった。「座摩社の段」は文楽でも歌舞伎でも見たことがない。野崎村の段」は文楽、歌舞伎ともによくかかる演目なので、何度か観ている。

「野崎村」の「切り前」を語られた呂勢大夫さんの語りに、聴き入ってしまった。彼の上手さについては、このブログに何度か書いた。でも、今回単に「上手い」というのではなく、今までにない凄みを感じた。

文楽を見始めた頃、東京の国立劇場の小劇場に乗る文楽を、夏休みを利用して見に行っていた。公演がはけた後、地下鉄半蔵門駅で呂勢大夫さんと文字久大夫さんに出くわしたことが二度ある。お二人とも長身。スーツ姿が決まっていた。着物姿でないのが、印象的だった。新進気鋭の大夫さんたちなんだと、納得した。それが今では中堅になられたんですね。

呂勢大夫さんの声は他の大夫さんと違って、高め。朗々と語られるのは鈴を転がすよう。声が綺麗というのは文楽大夫の場合「不利」なのかもしれない。それ以上に目を惹く男前で、それもそれまでの文楽だと「有利」ではなかったかも。でも、そのあと、次から次へと賞を取られ、実力が正しく評価されたのが、嬉しかった。故呂大夫さんの三味線相方の鶴澤清治さんと組まれるようになり、格が高くなったことも嬉しかった。彼のお師匠の呂大夫さん、きっと草葉の陰から慶んでおられるだとうと、しんみりした。

「杉本文楽」公演で大夫を務められたのも、彼の評価が高いことの証左だと思う。

この「野崎村」での久松をめぐるお染、おみつとの綱引きの様子、可愛くも可笑しい。可笑しさ、軽さが最終的には「悲劇」へとと繋がる重要な段。通奏低音として「悲劇」が鳴り響いているわけで、それを含みとして語らなければならない。技巧だけではカバーできない何かが要るんだろう。その「何か」を、呂勢大夫さんのこの日の語りは感じさせた。

因みにこの段、「文化デジタルライブラリー」で読める。最近ダウンサイジングの一環で公演筋書を買わないので、これがあると助かる。