yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

文楽公演『新版歌祭文 野崎村の段』in「錦秋文楽公演」第2部@国立文楽劇場 11月10日 

待ちに待った本拠地大阪での文楽公演、先月末に幕が開いた。今月に入って早速第3部の『本朝廿四孝』を見てきたのだけれど、公演中眠気が襲ってきて、前半部は記憶になし。ここまで無様だったのは初めて、なんとも不甲斐ない。情けなくて自信喪失である。

気を取り直して、昨日の昼の部は開演前にブラックコーヒーを飲んで態勢を整えて臨んだ。非常に面白く、ワクワク感満載でうたた寝をする暇がなかった。歴史物ではなく世話物だったことも大きいし、演者がとびきりイキがよかったこともあるかもしれない。一応、チラシの表・裏をアップしておく。

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文楽の「野崎村」は歌舞伎版よりも長め。というのも歌舞伎版は、お光が登場し鱠用の大根を調理するところから入る。浄瑠璃版は折り目正しく、その前の久松が小助を伴って久作宅に帰ってくるところから始まる。なぜ久松が窮地に陥っているのか、そのリーズニングにより重点を置いているのである。一方の歌舞伎は、久松を挟んでのお光とお染との心理的駆け引きに重点を置いているから。ハイライトのつけ方が異なっているのが、この場にはっきりと出ている。

もう一箇所、歌舞伎と浄瑠璃とが決定的に違うのが「お夏清十郎」の祭文売りの登場である。まさにこの「お夏清十郎」噺がそのまま、お染・久松の未来に被ってくることになる。祭文「お夏清十郎」の悲劇はお染と久松の行く末、悲劇を予告しているのである。この祭文部が入ることで、物語が重層的になるので、やはり入れた方がいいだろう。

それにしても呂勢さんの渋さ、上手さ!絶妙の語り口、間の取り方。人物の描き分けの精確さ。人物が抱える感情の襞を語りわける繊細さ。どれをとっても今までに聞いたことのない太夫節。語りのうねりに身を委ねていると、その人物になった気持ちになる。思わず涙が出て、「あれ?」っと、我ながら驚いた。客席を見ると涙をぬぐっておられる方も。三味線の清治さんもそれに負けじと技巧の限りを尽くしておられた。お二人の競演は贅沢の極み!呂勢さんが文字通り最高の太夫だと確信させられた。清治さんは既に人間国宝ですしね。亡きお師匠の先代呂太夫さんもきっと喜んでおられるだろう。また、先日亡くなられた嶋太夫さんもあちらで呂太夫さんと共に喜んでおられるだろう。呂勢さんはやはりこちらの系統ですね。しっかりと伝統の継承を感じた。

若手の睦太夫さんもめっきりと腕をあげておられて、もう中堅の域を超えた感じがした。もちろん切りの咲太夫さんも素晴らしかった。ひところ痩せられ心配していたのだけれど、元の咲太夫さんに戻られ、というかより一段上の語り域に進まれていた。さすが名人と謳われた八代目綱太夫のご子息。聞き惚れた。三味線の燕三さんもより一層渋くなっておられて、ぴったりの息。

さらにうれしかったのが、簑助さんがほんの短い間ではあったものの、油屋お勝を遣われたことだった。さすがの色気ある繊細な遣い。こういう形でもいいから、ずっとお身体が許す限り登場していただきたい。「文化デジタルライブラリー」に載っている「野崎村の段」写真では簑助さんがお光を遣っておられた。

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