yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

映画『陰陽師』を再見

羽生結弦さんが「SEIMEI」を舞われると分かった去年、映画『陰陽師』もう一度見たいと思い、TSUTAYA等で借り出そうとして、失敗した。ネットの動画を当たったけど、これも無かった。前に一度見ているし、その時はそうインパクトを感じなかったので、そのままになっていた。それを動画で見ることができた。きっかけは、先日「劇団悠」観劇を一緒したアメリカ人の元同僚の先生からメールをいただいたこと。

私が羽生結弦さんの「演技」への能の影響について発表するといったのに興味を持たれたよう。驚いたことに、その夜のうちに羽生選手のパフォーマンスの幾つか、そして萬斎さんとの対談、さらには『陰陽師』まで、ご覧になったという。その熱心さに、言いだしっぺの私でさえたじろいだほど。彼の興味があるのは、アメリカ人らしく、芝居というよりミュージカル。そこはヨーロッパの人と違うところ。まあ、これは極端な一般論ですけどね。羽生選手の纏っている雰囲気はアメリカ的なそれとはまるで違っているから、彼の興味に驚いた。「SEIMEI」のサウンドトラックをご自分の劇団のショーに使えないかとも、考えておられるらしい。

映画の『陰陽師』を見たのは、アメリカの大学のクラスでだった。授業中ではなく、図書館で見た。アサインメントの一つになっていたから。一体何年前?映画のリリースが2001年だから、おそらく2002年だろう。今回見直して、ほとんど初めてという感じだった。夢枕漠の原作の幾つかのエピソードのコラージュになっている。以前見た時は原作を読んでいなかったので、映画の構成の緊密さが分からなかった。原作の各エピソードは「なんとなく始まり、なんとなく終わる」という、どちらかというと緩やかな流れの中にある。それはおそらう夢枕の世界観を表しているのだろう。ところが映画は起承転結がクリア、時間の流れも速い。スピード感が際立っている。駆け抜ける感じ。それというのも、天皇をめぐる陰謀、それにまつわる貴族+陰陽師間の対立の構図が軸になっているから。安倍晴明はこのような政治(ポリティックス)とは距離を置く陰陽師なのだが、親友の源博雅の頼みを受ける形で、このポリティックスに巻き込まれてゆく。最終的には宿敵の道尊との闘いになる。

この軸に幾重にも伏線をつけることで、よりドラマチックに話しを進めて行ける。こういう風に原作を一度解体し、再構成した脚本家(福田靖、夢枕獏、江良至)の手腕はなかなかのもの。エンターテインメント度は圧倒的に映画の方が高い。2時間弱に納めなくてはならないという制約が、逆にドラマ性を高めたことになるのかも。

エンターテインメントとしては高く評価できる。が、芸術度的には留保がつくかも。野村萬斎の起用がなかったら、この映画は成功しなかったのでは。この人の気品、風格の高さ、身体の線の優雅さ、発する言葉の美しさ、どこを取っても無類の適役。原作の晴明以上の晴明像を現出させた。

野村萬斎という狂言師の持つ存在感。それは歌舞伎の役者の存在感と似ているかもしれない。彼らが映画、テレビに出演したとき、完全に周りを喰ってしまう。声が違う、身体が違う。纏う雰囲気が違う。場の納め方が違う。すべて「気」の違いがなせる技。

今度、羽生結弦さんが映画に出演された。なんとお殿様役だという。萬斎さんのように主役を張るわけではないので、比較できないだろうけど、彼がそこにいるだけで「気」がそこに充満したであろうこと、それが辺りを圧したであろうことは、『陰陽師』の萬斎さんと共通していたのでは。近いうちに見たいと思っている。