yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

久しぶりの墓参りで京都へ—海外からの観光客激減で快適!

3月のお彼岸に行けなかったので、一昨日東山五条にある西大谷霊廟にお参りしてきた。ここには祖父が眠っている。元々は滋賀県の人で、その後京都に出たらしい。その親族はほとんどが京都在住のようである。といえ付き合いは途絶えている。水島某という親類が祇園八坂神社へ続く通りで時代屋を構えていたらしいけど、今はない。

それにしてもこの静けさ。今年の2月まで祇園のあたりはものすごい混雑で、バスに乗ったら必ず渋滞にかかってしまう「難所」であった。ところが一昨日はスッと通れた。観光客はちらほらいるけれど、そのほとんどが国内からの旅行客。だからバス車内も静か。そういえば15年くらい前まではこんな感じだった。昨今の異様なまでのおびただしい数の海外からの観光客。彼らに媚びる店。彼らを収容するべく林立するホテル。こういう事態が異常だったのだと気付かされた。観光客増加で失ったものが、実に甚大だったのだと、気付かされた。2年前に滞在したロンドンにも辟易したけれど、それと同じ事態が京都にも起きていた。海外からの客に蹂躙される観光資源の悲惨である。

このコロナ禍は非常な痛みを伴ったものではあるけれど、日本が、都市が海外客をどう迎えるのかを、一旦立ち止まって考えさせてくれたという面もあったのではないか。闇雲に受け入れることが「良い」のだろうかと。

一昨日、感激したのは空気の清浄さ。京都らしい風情が再び戻ってきていたこと。こういう平穏は続きはしないのだろうけれど、それでもこれを愛おしみたいと願う自分がいる。学生時代に住み、そして馴染んだ京都を今少し味わい、楽しみたいと思う自分がいる。

京都観世会の6月例会の延期公演が今月末にある。抽選なので当たるかどうかわからないけれど、当たらなくても出向こうかと考えている。観世会館のあたりは平安神宮を始め美術館があるし、ロームシアターもある。ちょっと前までは、観光客の多さに辟易して通るのさえもパスしていたけれど、今のうちにしっかりと京都味を楽しむのもいいのかもしれない。ついでに近くの寺院を訪問するのもいいかもしれない。今後こういう機会がないと思うので。