yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

浦田保親師、浦田保浩師、そして林宗一郎師の仕舞三番が凛々しくも美しかった「杉浦定期能」@京都観世会館12月19日

前日の「petit能」と、翌日の京都観世会例会に挟まれたこの日、体調が思わしくなかったし、コロナ感染が心配だったので直前まで迷いに迷った末、出かけた。前売り券を持っていたこともある。でもやめるべきだったと後悔している。

能『清経』は以前に林宗一郎師のシテでも見ていて、非常に印象に残った能のひとつ。しかし、この日の舞台には失望した。かなり高齢の(と思しき)シテ。足元がおぼつかなくて、橋掛かりに登場した時点で、「あれ?」と思った。悪い予感は的中し、終始ハラハラし通しだった。残念としかいいようがない。シテツレの方も曲が終わって立ち上がるときによろよろとされていた。老々コンビだった?後見を務められた宗一郎師が終始立て膝で、シテ補佐役として気遣っておられた。お優しいですね。さすが宗一郎師。

推察するに杉浦師のお父上の弟子の方々?猫の首に鈴をつけるのは序列的に極めて難しいのだろう。でも、この際はっきりと止めるべきではないだろうか。社中会でシテをされる方の方がはるかに優れていてはシャレにならない。看板に傷がつくと老婆心ながらも心配である。

門外漢が出る幕ではないのかもしれない。しかし、能を私のような一般人に、あるいは能初見の人に広めるには、きちんとした実力のある演者を中心に据えるべきだろう。旧い慣習、ヒエラルキーが残っているのは承知の上での意見である。そうでないと能は広がらない。これが能だと思ってもらっては困る。木戸銭を取る以上、レベルは下げるべきではないだろう。

失望感を補って余りあったのが能の後の仕舞三番。浦田保親師の「老松」、浦田保浩師の「野宮」、そして林宗一郎師の「車僧」のそれぞれが、とても折り目正しく、美しい仕舞だったのに感激した。「老松」はキレが絶妙、「野宮」はしっとりと叙情感たっぷり、「車僧」はその躍動感が圧巻だった。すっと立って退場される様が直前の能のよろよろした足さばきとはまるで違っていて、冷酷なまでの身体能力の落差を感じた。すっと立てなくなれば、能であれ、能本番であれ、舞うべきではないのでしょうね。我が身を振り返って思うところもありました。現実は冷酷、しかし受け止めなくてはならないのでは。

なんだかとても疲れて、最後の能、『船弁慶』はパスした。その足で西大谷に本年最後の祖父の墓参をして、帰途についた。帰宅は7時過ぎ、京都は遠い!