以前にも京都観世会で3回ばかり『龍田』を見ている。直近は昨年9月の河村浩太郎師シテの「林定期能」公演。若々しい演者と華やかな衣装がビジュアル度の高い舞台を創り上げていた。当ブログ記事にしている。
昨日の京都観世会納会のチラシをアップしておく。二部構成になっていた。
演者一覧は以下。
シテ 味方 玄
ワキ 殿田謙吉
ツレ 則久英志
渡貫多聞
アイ 小笠原由祠
笛 竹市 学
小鼓 吉阪一郎
大鼓 石井保彦
太鼓 前川光範
後見 片山九郎右衛門 味方 團
地謡 谷弘之助 河村浩太郎 河村和貴 深野貴彦
分林道治 古橋正邦 青木道喜 越賀隆之
さすが禅竹作。古今集の歌を引く詞章は、イメジャリーが交錯、増幅、展開する華麗なもの。上記事に引用した『謡曲百番』中の該当する古今集の歌とその解説を再度引用させていただく。
龍田明神のご神体、龍田姫は「秋を守り」「紅葉を手向け」とする神である。本曲はこうした理解を背景に、「中絶ゆる」という言葉をキーワードとして前掲の古今集歌「龍田川もみじ乱れて流るめり 渡らば錦中や絶えなん」と「龍田川もみじ葉閉ずる薄氷渡らばそれも中や絶えなん」を中心に歌問答を展開させ、紅(くれない)の「紅葉の艶」に、「氷の艶」を重ねて、散り飛ぶ紅葉を幣と手向ける龍田姫の姿と夜神楽の神秘を描く。
この「紅葉を手向け」という詞からは、かの有名な道真公の「この度は幣もとりあえず手向山 紅葉の錦 神のまにまに」という歌が思い浮かぶだろう。この歌も当然ながらこの曲の下敷きになっている。私の乏しい知識はここまで。
だから『謡曲百番』の解説を読むまでは、この曲の編み出している多元的イメジャリーが今ひとつ浮かんでこなかった。そうなんですね、これは歌問答になっているんですね。さすが学者=禅竹の面目躍如たるものがある。頃は厳寒の1月、紅葉も(もちろん花)もない薄氷の張った龍田川。およそ華やいだ風景ではない。そこに(やや無理矢理に)紅葉を配してくるという、一種の裏技を使ってみせる禅竹。もちろんここで連想されるのは三島由紀夫の定家の歌「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」について論じた新古今和歌集的「存在しないものの美学」である。さらにもう一歩踏み込めば、連歌師、心敬の「氷ばかり艶なるはなし」という美意識に行きつくように思う。幽玄の先にある「冷え寂びたる美」に至る。哲学者でもある禅竹はこれを「非風」の究極の芸刧「闌位」とし、「是風」の究極の芸刧、「妙花風」の対極に置いた。
再び『謡曲百番』の解説を要約する。
『神皇正統記』の「国家鎮護の根本である天逆矛の守護神の瀧祭の神が、即ち龍田明神と一体であるという理解」を踏まえている。荒魂を描いた荒々しい神能『逆矛』の本歌取り作品。『龍田』は和魂としての龍田姫を形象している。
『龍田』の曲調が終始穏やかなのは、龍田姫がシテだから。味方玄師の龍田姫は楚々として、清らかさが全身から匂い立っている。紅葉の幣を手に持ち、あくまでも静かに、厳かに舞う。所作のひとつ、ひとつが端正で、ピタッと決まっているのに見惚れてしまう。そして、あのお辞儀をする一連の動きで、改めて、その流れの美しさと厳かさに瞠目する。あの場面、好きなんですよね。いつまでも耳に残るお囃子の音色、それに合わせた神拝の所作。いつも初めて見た(聴いた)時の感動を追体験している。シテと終幕の地謡との掛け合いで終わるのだけれど、その詞章もビジュアル度満点である。「Plala」サイトから詞章をお借りする。ありがとうございます。
地 神の御前に。散るはもみじ葉。
シテ 即ち神の幣。
地 龍田の山風の時雨降る音は。
シテ 颯颯の鈴の声。
地 立つや川波は。
シテ それぞ白木綿。
地 神風松風吹き乱れ吹き乱れもみぢ葉散り飛ぶ木綿附鳥の。
御祓も幣も。翻へる小忌衣謹上再拝再拝再拝と。
山河草木。国土治まりて。神は上らせ。給ひけり。
最後に当日のチラシ裏をアップしておく。