yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

シテとツレの駆け引きが印象的だった井上裕久師と大江泰正師の能『通小町』in「京都観世会十二月例会」@京都観世会館 12月20日第二部

この京都観世会の納会は二部構成になっていて、コロナ禍での例会公演に倣い、応募して当選した人だけ「観劇権」を確保できるようになっていた。しかもすでにチケットを持っている人だけが応募できる。今回はラッキーなことに、一部、二部ともに当選だった。例会が復活して以来、毎月応募してはいるのだけれど、2回ばかりハズレてしまった。ハズレでも、前売り券でDVD が引き換えになる。とはいえ、私としては、やっぱり実舞台を見たいので、すべて応募してきた。なんと、この二部が当選したので、前売りチケットは無駄にならずに済んだ。

ただし、この日体調が良くなかった。先月末にも体調を崩して、「すわコロナ!」と、自分に二週間の自粛を課している。発熱症状は皆無だったんですけどね。この日も熱はないのだけれど、風邪気味で、行くかどうか迷いつつ出かけた。観世会館に着き、舞台を目の前にすると俄然元気が出て、それまでの不調が嘘のよう。一部の最後の能、『龍田』を見終わった後、二部も初めの番組のみだけを鑑賞して、退出しようと決めていた。だから、応募した折には楽しみにしていた松野浩行師の『熊坂』を見ていない。松野師の初心者向けの能楽解説のYouTube動画には本当にお世話になっていて、感謝してもし足りない。今後もよろしくお願いいたします。コロナが1日でもはやくおさまるのを祈るしかない。

なんとか最初の能、『通小町』は最後まで見ることができた。以下に演者一覧を魚拓でアップしておく。

 

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『通小町』の概要を例によって銕仙会能楽事典からお借りする。以下。

京都北郊 八瀬の山里で修行する僧(ワキ)のもとを毎日訪れ、木の実を捧げていた一人の女(ツレ)。不思議に思った僧は名を尋ねるが、女は木の実の歌を謡って誤魔化し、正体を明かすことを躊躇う。しかしやがて、女は自らを市原野に住む者の霊だと告げると、回向を頼みつつ姿を消す。実は彼女は、小野小町の亡魂であった。

僧が市原野で弔っていると、小町の霊(ツレ)が現れ、回向に感謝する。そこへ現れた、深草少将の亡霊(シテ)。小町への恋慕の果てに絶命し、今も小町の成仏を妨げていた少将。彼は懺悔として、小町のもとへ百夜通い続けた様子を語り、祝言の盃を目前にした九十九夜目の感慨を思い出す。その時、酒は仏の戒めだと気づいた少将。懺悔の中で持戒の念を起こし、罪障を滅することの叶った彼は、遂には小町と共に成仏してゆくのだった。

二人の主人公の対比が顕著である。最初に登場する小町(シテツレ)の大江泰正師、上背があり、堂々としている。あとで登場する井上裕久師の深草少将はそれに比べると触れれば消えなんばかりの覚束なさ。この対比がとても印象的だった。他の演者では違ったかもしれないけれど、この日たまたま?のシテとツレ。それはそのままこの物語の真髄を表象するものでもある。確信犯なのか、たまたまなのか、これ以上ないほど勢力関係を如実に表した二人のシテだった。

上下の力関係はそのあともずっと続く。二人の生前の争いが再びワキの僧の前で展開する。この部分がいかにも現世的で、かつ心を打つ。死してもなおつきまとう愛欲の恨み。深草少々の怨念がここぞとばかりに爆発する。なぜ、死んでまでこの念にとらわれ続けなければならないのか、あまりにも不条理ではないか!ひたすら小町がにくい!なぜ、こんな不条理を私は受け入れなくてはならないのか!少将の恨みは尽きることがない。

しかし、その恨みの深さは、そのまま自身の業の深さ。ここから解放されない限り、成仏はできない。それを悟り、少将の霊は恨みから解き放たれる。そして恨んでいた対象の小町と共に成仏してゆく。

能の「小町もの」は大抵はもっと象徴的な形に昇華されて二人の間の駆け引きが描かれているけれど、『通小町』に於いてはずっとリアルである。小町と少将の間のかけひきがより現実的な趣きで展開する。ストーリーにより忠実とでもいおうか。人間感情を象徴化する能としては、それがマイナス点になっているようにも感じるけれど、一歩離れて俯瞰すると、現在進行中のドラマを見ている臨場感があるとも言える。テレビドラマを見ている感覚である。私としては、これも捨てがたい。

ともあれ、何かメロドラマの一つをみおえた感慨を持った『通小町』だった。