yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

シテの謡が素晴らしかった『二人静』と『葛城』 in 「井上同門定期能十月公演」@京都観世会館 10月13日

演者一覧が掲載されたチラシの表裏をアップしておく。

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『二人静 立出之一声』のシテ(里女・静御前)橋本雅夫師とシテツレの(菜摘み女)橋本光史師はおそらく父子。息が合っていた。特に後段で二人揃って舞う場面。面をつけているので、視界はほぼ遮られている。袖を上にあげる箇所、並んだ状態で回りこむ箇所は、ピタリと合っていないと感興が殺がれてしまう。そこは見事なまでに揃っていて、二人の優雅さがより強調されて伝わってきた。ちょっと気になったのが、シテの足元が危なっかしく感じるところ。でもよく通る伸びやかな謡がそれを補ってあまりあった。

『葛城』のシテも、膝をついたり、立ち上がったりするとこが危なっかしく、ひやっとする場面があったのが残念だった。年配の方だろうと推察された。ただ謡は、『二人静』のシテと同じくとてもたっぷりとした情感溢れる謡で、感動した。このときのワキは有松遼一師で、相変わらずの美声。また彼が「率いる」若い岡充、原陸両師ワキツレの、初々しい中にも芯がある語りが楽しめた。

お囃子方は京都観世会館でおなじみの方々で、舞台にしっかりとメリハリをつける名演が、今さらながらに絶品だった。とくに『葛城』での左鴻泰弘師(笛)、吉阪一郎師(小鼓)、石井保彦師(大鼓)、そして井上敬介師(太鼓)の組み合わせは最近聴く機会が多く、勝手にほっこりとしていた。

地謡方はいつもの京都観世の方々とは微妙に違っていた。面々もそうなんだけれど、その節回しというか揃い方の自由度が高い印象。縛りを守りつつもどこかはみ出しているというか、その波に乗ってしまうというか。なんて、ちょっと落ち着かない気持ちだったのだけれど、その謎が解けた。

翌々日の15日に開かれた京都造形芸術大学での講座「日本芸能史」第四回のゲストが、この「井上同門会」の主催者である井上裕久師で、「謡講」を長年にわたってご自宅の能楽堂、嘉祥閣 で開催してきておられる。「謡講」を辿ると、江戸時代に京都に発生した「京観世」と呼ばれる独自の謡に行き着くという。京都の町衆と能、とくに謡との長くも深い関わりを示すものでもある。謡を抽出し、それを稽古、披露する会は、今も井上師と井上会の能楽師の方々で続けられていて、それが「謡講」。そもそも「京観世」の謡は、近代になって標準化され「統一」されてしまった観世流の謡とは違った独特のもの(「二段下げ」というそう)だったとのこと。ということで、今の観世流のそれと「京観世」のそれとの実演をしてくださった。観世流を吉浪嘉晃師が、京観世を井上師が謡われた。非常に興味深かった。脈々と続いてきた「京観世」の謡い方が、今なお「井上会」の謡の中に「生きている」のだと感じた。微妙に違っているんですよね、普通の観世流の謡とは。 

こういうこみいった歴史的経緯と実演とで、謡がかなり近いものになった気がした。また、井上裕久師の素敵なお人柄に感銘を受けた。HPをここにリンクさせていただく。