yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

林宗一郎師の挑戦に感動—復曲能『吉備津宮』京都公演—桃太郎伝説の深層@京都観世会館2月12日

あまりに感動したので、かなりラフな感想になるけれどもレポする。

「復曲への道のり」と題したネット記事に何回かに分けて復曲への過程が記されれている。今日、林宗一郎師と松岡心平氏が語られた「解説」は、まさにこの長く複雑な過程を短い時間に纏めたもの。この作品が、歴史上、地理上の様々な縦糸横糸を絡み合話せたものであることが、ダイレクトに伝わってきた。膨大な「情報」を詰め込んだ『吉備津宮』。これをあの極めてシンプリファイした能舞台で演じる。この「矛盾」に眩暈がしそうだった。演能に先立っての松岡心平氏の「解説」にも、眩暈がしそうなくらい興奮してしまった。松岡心平氏の「解説」については追って記事にする。

能、『吉備津宮』を見終わった感想、「素晴らしかった!」のひとこと。よくぞここまで緻密、繊細な舞台に仕上げられたもの。あわせて、この作品が復曲能という「衣」を着せられつつ、古典でもあり、新作でもあるところが素晴らしい。古典の型に倣いつつも、随所にそれへの挑戦が組み込まれている。さりげなく、でも明瞭に。先だって、新作能の『紅天女』の失敗を目撃してしまったので、この復曲能の成功が嬉しいし、貴重に思える。能が揺るぎない日本固有の民俗の真っ只中に芽生え、そこを土壌として発展してきたこと。そこに生まれ育った芸能であること、それを嫌というほど堪能させてくれた曲は他にはない。ただ、感謝!

以下作品の内容を、ノートルダム清心女子大学の「日本文学科ブログラム」の木下華子さんの研究サイトから引用させていただく。題して、「鬼はどこにいる?──桃太郎・温羅伝説と能「吉備津宮」から」。

[前場(前半)]  
 いさせり彦(吉備津彦)と吉備津火車(温羅)は、桃太郎伝説における桃太郎と退治される鬼のモデルである。昔話「桃太郎」の主人公は勝者である桃太郎、つまり吉備津彦だが、「吉備津宮」の主人公は、現在も吉備津神社内に祭られる吉備国の地主神・岩山の神だ。曲内でも、敗者である火車の勇猛な戦いにスポットが当てられ、勝者・吉備津彦の名も「吉備津」火車から譲られている。火車とは、強大な力で大和朝廷に対抗したいにしえの吉備国の象徴なのだろう。「吉備津宮」とは温羅側・吉備国側から見た桃太郎伝説の様相を呈した、まさしく岡山ゆかりの能なのである。

吉備津宮の釜の鳴動という神異を確かめるために、天皇は勅使を派遣する。到着した勅使が話を聞こうとすると、庭掃きの老人が現れ、神社の縁起を語る。かつて異国から来た鬼・吉備津火車(温羅)が新山に住み、鬼ノ城を築いて瀬戸内海の海運を妨害したため、朝廷はいさせり彦を大将とする軍勢を派遣した。火車は勇猛に戦うが、ついに力尽き、自らの武勇の名が消えることを悲しんで「吉備津」の名をいさせり彦に譲る。いさせり彦は吉備津彦と名乗り、火車は吉備津宮に付属する末社となった。老人はこのように語った後、自分は岩山の神(=吉備津宮の地主神)だと明かし、姿を消す。

[間狂言](前半と後半の間に演じられる狂言、寸劇のようなもの)
勅使が吉備津宮に仕える神職に鳴釜のことを尋ねると、神職は由来を語り、阿曽女(あぞめ)を呼んで鳴釜神事を行う。釜は大きく鳴動した。

[後場(後半)]
前場で姿を消した老人(岩山の神)が、神の姿となって現れ、吉備の山河を祝福し、天下太平を寿いで神々しく舞う。

シテの林宗一郎さんが前説で仰っていたことでもあるのだが、一番のみどころは何といっても、前場でシテの老人が神社の縁起を語る場面でのもの。退治する側のいさせり彦の尊が退治される側の火車と対決する場面。ここで、本来なら火車役のシテはなんと敵役の尊をも演じる。つまり、鷹となった尊を演じたり、鵜となった尊を演じて、火車を追い詰める。ここ(「クセ」というらしい)に一工夫があるという。普通の能の舞台ではないような躍動的でダイナミックな所作が続く。立ったり座ったりのかなり激しい動きがある。宗一郎さんは難なくそれをこなし、敵である尊がいかに勇猛であるかを示していた。これは若い演者でなくては無理だろうなと感じた。それにしてもシテが自身と相手(敵)とを同時に演じてしまうというこの「趣向」は一体何なんだろうと、問いかけつつ見ていた。

火車は自らの名を敵の尊に捧げることで、落とし前をつけられる。この物語を語る時、前シテの面がふっと陰る。悲しげ。その哀しみは、火車の首が埋められた吉備津宮の釜の鳴動となって、尊を苦しめることになる。この部分はアイが語る「物語」として復曲版に付け加えられたという。踏み込んだ「解釈」が示され、内容がより複層的になって立ち上がっている。

そして最終場面の舞台いっぱい使っての舞。力強いと同時に品があった。鬼として退治されてしまった火車への深い思いがあふれていた。勝者の武者が舞うというのではなく、退治した勝者と退治され者とが一体となった舞。こういう舞は『鵺』にもあるけれど、能ならではのすばらしい工夫だと思う。近代劇ではこういうことはありえない。能の底知れない洞察を感じる。


以下に演者一覧を。

シテ(老人のちに岩山神) 林宗一郎
ツレ(若い男) 大槻裕一
ワキ(天皇の勅使) 福王知登
従者  是川正彦
従者  中村宣成

アイ(神職) 田賀屋夙生
アドアイ(阿曽女) 島田洋海

笛 杉信太朗
小鼓 吉阪一郎
大鼓 守家由訓
太鼓 前川光範

後見 河村浩太郎 河村和重 味方團

地謡 浦田親良 樹下千慧 河村和晃 河村和貴 
   松野浩行 河村晴道 河村晴久 田茂井廣道

私が何よりも感動したのは、林宗一郎師の心意気。復曲能を作り上げるという作業は並大抵の作業ではない。それを松岡心平氏の応援を頼みつつも、一つの形に仕上げられたということの重さ。どれほどの時間、労力、そして資金が注ぎ込まれたことだろう。それをあえてやってみせたという、この若い能楽師の心意気と矜持に打たれる。単に先祖代々続いてきた家を守るための作業ではないから。もっとやむにやまない内的な力につき動かされて、この気の遠くなるような過程をこなしてこられたのが解るから。

しかもできあがった作品の完成度の高さ!もちろんこれからブラッシュアップして、より芸術度を極めるのに様々なrevisionが施されるのかもしれない。でも根底にある「精神」はずっと引き継がれるだろう。そこに実は一番感動している。「若さ」が革新には必須条件であることを認識させられた。肉体的にはもちろんだけれど、それ以上に精神的にも。林宗一郎師がそういう位置におられることは、なんとも心強い。