yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

虚構の劇団 第13回公演 『もうひとつの地球の歩き方』@ABCホール2月3日

「AI」、「シンギュラリティ」等の未来を先取りする、あえていえば担保にする概念、それと現代に生きる若者たち、さらには過去に「生きた」天草四郎を結びつけようとする試みはそれなりに面白かった。そのようなフューチャリスティックな事象を現代に私たちはどのように「処理」するのか、あるいはできるのかを、登場人物たちの「ドタバタ」として描くところに、作/演出を手がけた鴻上尚史氏の意図があったのだろう。それは生身で舞台に関わる者としてはある種の必然だったはず。「この革命的な事象の中で生きざるを得ない生身の人間の可能性を見極めたい」という意思は感じ取れた。

でも、ここに留保が付く。体制自体を破壊しかねないほどの革命的な概念を導入しながら、そこには「破壊」への恐怖がほとんど感じられない。恋人たち、友人たちの間での分裂があっても、それはあくまでも「コップの中の嵐」。それ以上でもそれ以下でもない。「なんと暢気な!なんて生温い!」って思わずツッコミを入れたくなった。新概念を除外してこの芝居を見れば、単なる三角関係、四角関係の恋愛模様を描いたドラマとしか見えない。そう、単純なヒューマンコメディ。とんがったところはゼロだった。

「辛口」を承知でいうならば、こういう演劇に意味はあるんでしょうか?今、この場で、苛烈なパラダイムシフトの中を生きなくてはならない私たち。そういう私たちへのなんらかの「激励」は、あるいは「支援」はどこにあるんでしょうか?「激励の主体は現代に蘇った『天草四郎』だ!」なんて、まさかいうんじゃないでしょうね

なんとも安逸なヒューマンコメディ、それもユーモアのセンスに欠けるものに付き合わされた感が半端ない。かなり失望したのだけど、作/演出の鴻上尚史が80年代「小劇場」の担い手の一人であったことを知って、納得してしまった。ちょうど『八十年代小劇場演劇の展開』(れんが書房、2009)という本を読んでいたところで、この本に登場する劇作家、演出家、批評家の言質を確認することで、当時の状況とそれに関わった人たちの実態がいくぶんかは判ったように思う。この本の中に三島由紀夫、寺山修司の名が出てくるのだけど、そういう先人たちにははるかに及ばない凡庸な者たち。彼らが活動した八十年代に彼らが生み出した作品が、その前の時代の「焼き直し」というか、二番煎じにしか過ぎなかったのは、当然だったのかも。

話が脱線してしまった、ご容赦。鴻上尚史にしても横内謙介にしても、あるいは平田オリザにしても、八十年代の劇作家は「生温さ」で共通項がある。鴻上尚史の作品を見るのはこれが初めてだったので(あとの二人は何度か見ている)、改めてこの時代の「無風状況」をこの作品で確認できた。いくら革新的なコンセプトの意匠(衣裳)を着せようとも、内実の安易さは透け見える。先日にNTLiveで見た『エンジェルス・イン・アメリカ』の「過激」と思わず比べてしまっていた。

私からのメッセージ、それは「時代に媚びるな!」のひとこと。このテイタラクじゃ、歌舞伎、文楽、能などの伝統芸能には永遠に勝てない。

以下にプロダクション情報を。

<STAFF>
美術 : 池田ともゆき
音楽 : 河野丈洋
照明 : 林美保/音響 : 原田耕児
振付 : 齋藤志野
ヘアメイク : 西川直子
衣裳 : 小泉美都/映像 : 冨田中理
舞台監督 : 中西輝彦/内田純平

<CAST>
秋元龍太朗
小沢道成 小野川晶 三上陽永 森田ひかり
池之上真菜 梅津瑞樹 溝畑 藍 金本大樹
橘 花梨 一色洋平 ほか

さらに以下に東京公演のあった「座・高円寺」サイトからの情報を。

<あらすじ>
生きることに挫けたら、今ある地球を捨てて、もうひとつの地球を歩こう。
これは、記憶とシンギュラリティと天草四郎の物語

このデジタルの時代に、どうして演劇なんてものが滅びず、続いているのかと考えれば、それは、「目の前で生身の人間を見る」というシステムの強さだろうと思います。ネットとスマホの時代になり、みんな、どこにも出かけられず、
簡単に情報を手に入れられる時代になりました。
だからこそ、いろんな情報に振り回され、炎上し、ヘイトと不寛容が増殖しています。

そういう時に何が信じられるのか。それは、煎じ詰めれば、「目の前にいる人間をどう感じるか」だと思います。ネットでどんなに美文を書いていても、どんなに偉そうな立場にいても、目の前で見た時に「信用できそうだ」「うさんくさい」と感じる人間の直感は、僕はけっこう、捨てたもんじゃないと思っています。演劇は、人間の活動を目の前で見ます。特に、『座・高円寺』のような濃密な空間だと、人間そのものをじっくりと見つめられます。それは、人間が人間として生きていく大切なレッスンであり、知恵であり、愛おしい時間なんじゃないかと思って、いつも、僕は『座・高円寺』で芝居を創るのです。

正直な感想。「お説教はいいから、舞台でそれを確認させて!」。