yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「検証なきメディアは価値がない」に同感

今日のツィッターで拾った話題でなるほどと思ったトピックの一つが、「ブロガーズ・ネットワーク翼」からの記事、「検証なきメディアは価値がない(マスメディアは人から腐る・2)——ネット劣化は検証しない人が作る」で、*1ツィッターでの情報が誤解の連鎖を生んだその跡を辿っているものだった。そういう誤解を生んだ原因は、情報の受け手がその情報のソースとして呈示されているものをろくろく読みもせず、RTしたり、反論したりするからである。それをこの記事の執筆者は以下ように嘆く。

そもそも議論をする人は、その議論の正当性を示す根拠を示さなければならぬ。ところが、最低限のリンク先も読まず(中略)反論するのは検証が足りないというしかない。インターネットが普及して、マスメディアに登場する文言でもその根拠を探ることが容易になっている。少なくとも、ツィッターをする人なら、インターネットで最低限の検証をしてから発言するべきなのだ。

続けて、そのソースをきちんと検証しないという風潮がテレビ業界ではずっと以前からみられたことへの例が、草野仁氏の2007年12月号の『文藝春秋』の記事に示されている。草野さんが「ザ・ワイド」のキャスターをしていた森政権の末期、番組スタッフが根拠のあきらかでないある女性週刊誌の記事、「支持率が悪いのに森総理がなかなか辞めないのは、退職金を少しでも余計にもらうためだ」を番組で取り上げ、草野さんが止めるのも聞かず、それをそのままオンエアするという暴挙に出たという。もちろん局にはクレームがきて後始末をするのが大変だったというエピソードである。草野さんは次のように続けている。

他人が書いた記事の内容を検証もせず、映像化して放送するなどということは、報道の原則からもあってはならないのです。自分たちの足で稼いで、独自に裏付け取材することを第一としてきた『ザ・ワイド』の精神が、しだいに緩んでいたのでしょう。
(中略)
最初にはじめたテレビ朝日の「やじうま新聞」は斬新なアイデアだったと思いますが、今や新聞や雑誌の記事をそのまま紹介してコメントする形式が、多くの情報番組でごく普通になっている。長い目で見たとき、テレビへの不信感につながるかもしれません。

草野さんの嘆きはいまもそのままテレビ業界では「常態」としてみられる。

発売中の『週刊ポスト』の特集記事、「さらば、テレビ」にその「重病」ぶりが書かれている。孫引きになるけれど、以下に引用する。

10年前の約9時間半から10時間40分へと1時間10分も放映時間が増えているテレ朝。同局の情報番組関係者が語った。
「朝の情報番組の場合、独自取材はゼロといってもいい、今朝の企画会議のラインアップの95%が新聞・週刊誌から頂いた情報です。スタジオさえあればニュース素材の編集で番組が作れるから安く済む。出張取材などほとんどありません」(週刊ポスト2011年8月19・26日合併号「さらば、テレビ」小学館)

事態がより深刻化しているのがよく分かる。そしてこのブログの執筆者はその深刻さを小出五郎さんの著書中の記述に仮託している。孫引きさせてもらうと以下である。

第二に、仮説を検証しないディレクターが生まれた。
視聴者の耳目を集める企画をディレクターは提案したい。企画は前に書いたように仮説である。取材という検証を通じて初めて番組にすることができる。いわば番組に育てる前の芽のようなものだ。その前提が崩れた。
仮説の検証の第一は、まず現場に行くことである。関係者の話を直接に取材しなければ何事も始まらないはずである。ところが、仮説を立てるものと検証する者が別々になってしまった。(小出五郎著「新・仮説の検証 沈黙のジャーナリズムに告ぐ」水曜社)

ジャーナリズムがセンセーショナルな話題を取り上げるからといえ、というかだからこそ、検証は必須条件である。ジャーナリストの場合ならそれは現場での取材ということになるだろう。それもせずに記事を書くことの「おそろしさ」を認識しない記者が増えたということだろう。読者への責任という意識もまったくないのだろう。

このブログの執筆者は「出版も新聞界も検証なし」と結論づけている。これが「メディア崩壊」の一つの兆候と考えるこの執筆者に、深く同感する。

*1:http://mugendai.bloggers-network283.com/2011/08/検証なきメディアは価値がないマスメディアは人から腐る2.html